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柴田トヨさんがお亡くなりになりました。 

前にも紹介させていただいたことがある、

詩集『くじけないで』

の作者、柴田トヨさんがお亡くなりになりました。

享年101歳でした。

トヨさんが紡ぎだす詩は、やさしく、しなやかで、力強い。

心が弱っているときに、深くしみ込んでくる言葉でした。

百歳を超えれば、大往生と言えるのでしょうが、残念です。


『くじけないで』のご紹介は、こちらでしております。

ぜひ、もう一度お読みください。

人生経験のパワーだ。『くじけないで』柴田トヨ <自伝・自分史・その周辺75>
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主体性の表れとしての笑顔。『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子 <自伝・自分史・その周辺110> 

父親が凶弾に倒れるのを目の当たりにした少女。

現ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子シスターは、9歳のときに、自宅に押し入った青年将校に父を射殺されました。
昭和11年に発生した二・二六事件でした。

数奇な運命ながら、我慢強く温かい母に育てられた少女は、長じて修道女になり、
36歳の若さで、修道会から任命され四年制大学の学長になりました。

責任の重さに、押しつぶされそうになりながら、シスターが信じたのは、
「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない」

という言葉。

さまざまな試練は、うつ病となってシスターに長く苦しみを与えました。
さらに、膠原病により骨を失い身長が14センチも縮む試練も与えられました。

しかし、神が与えた試練なら、乗り越えられないはずはない。

どんな苦境にあっても、そこから逃げるのではなく、そこで受けた試練を克服することに心を注ぐ。

いまいるその場所が、自分が咲くべき場所。

シスターは、そう考えます。

この本のなかで、私が心打たれたエピソード。

学生の一人が自殺したことがありました。
シスターは、二度とこんなことが起きないように、
「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という講義をしました。
数日後、廊下でいろいろな問題を抱える四年生と会いました。

 「あなたも大変ね」と声をかけました。
 するとその学生が笑顔で、しかしきっぱりと、
 「はい、大変です。大変だから、もうちょっとがんばってみます」
 と答えて足早に去って行きましたが、去った後に、
 一陣のさわやかな風が廊下を吹き抜けて行ったのをいまも覚えています。

「笑顔」に関するエピソードにも、思わず笑顔が出てしまいました。

いまの笑顔こぼれるシスターからは信じられませんが、生まれつき笑顔が少なかったそうです。
アメリカ人の男性職員から、
「渡辺さんは笑顔が素敵だよ」といわれたことから、笑顔が増えました。

そして、ただチャームポイントとしての笑顔ではなく、他人への思いやりとしての笑顔、そしてさらには、自分自身の心の戦いとしての笑顔へと、笑顔の質が転換して行きました。

 それは、ほほえむことのできない人への愛の笑顔であると同時に、
 相手の出方に左右されることなく、
 私の人生を笑顔で生きるという決意であり、
 主体性の表れとしての笑顔でした。


「主体性の表れとしての笑顔」、いい言葉ですね。
私も、そうありたいと思います。

スマイルゼロ円ですが、それを受け取った人には、大きな価値がありまます。

 不機嫌は立派な環境破壊だということを、忘れないでいましょう。
 私たちはときに、口から、態度からダイオキシンを出していないでしょうか。
 これらは大気を汚染し、環境を汚し、人の心をむしばむのです。
 笑顔で生きるということは、立派なエコなのです。


薄くて、すぐ読み終わる本ですが、シスターの言葉一つひとつが心にじわっとしみ込んでいきます。




自分史の本棚
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鋼の自意識で生きる。『僕は自分が見たことしか信じない』内田篤人 <自伝・自分史・その周辺109> 

サッカー日本代表、ドイツブンデスリーガ シャルケ04の右サイドバック 内田篤人。

昨年の東日本大震災のあと、頻繁に流されたCM

「日本の皆へ
 少しでも多くの命が救われますように
 共に生きよう!」

というメッセージを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。
あのメッセージには、私も勇気づけられました。

この本を読んで、『心を整える』の長谷部誠とは違った形で、でも、内田篤人も極めて内省的な人だと思いました。

端正な佇まいから、日本代表のなかで、ダントツ女性ファンを集める内田篤人。
人気の派手さと内田選手の実在に、驚くほどのギャップがあります。

高校生からJリーグへ。Jリーグから海外へ。
ユースから代表チームへ。

サッカー選手として、つねに「最年少」、「日本人初」という肩書きをつけられて成長してきた内田選手。
トップエリートの高い意識をもって、ぐいぐいキャリアアップしたのかと思うと、そうでもない。

悩みながら、迷いながら、苦しみながらやってきたのだということが、この本を読んでわかりました。

高校から鹿島アントラーズに入ったとき先輩、岩政選手に、
「ウッチーには、2〜3年後にスタメン張ってもらわないと困るなあ」
といわれたときのこと。

 「はい、頑張ります!」と即答したけれど、高卒で怖いもの知らずだった僕は、実は心のなかですごい悔しくて、
 「絶対、すぐにスタメンになる! 岩政さんの予想を裏切ってやる!」と燃えた。
 だから、1年目のキャンプでは、“岩政さんの鼻を空かしたい!”一心だったし、 
 そのおかげで、高いモチベーションを保てた。

人に絶対に弱みを見せたくない。自分がつらかったこと、頑張ったことはおくびにも出さずになにかを成し遂げたいと思う性格。

鹿島アントラーズ時代の、プロとしてのプレッシャーから感じた不安感。
その不安による不眠。そして、原因不明の吐き気。

 これから書くことは、僕の弱い部分。今まで誰にも見られていないし、言ったこともない。初めての告白だ。

 身体が苦しくても、休めば自分のポジションを他の誰かに譲らなければならない。
吐き気を感じても、
 「ガムを噛んで吐き気は止まった」と。嘘をついてプレーをした。

そうするようになった理由は、母から届けられた手紙。

 「大きくて頑丈な身体に産んであげられなくてゴメンね」

 そう書いてあった。目頭が熱くなった。
 僕はお母さんにそんな思いをさせちゃっていた自分に、すごいショックを受けた。
 そこから、嘘でもいいから、とりあえず、吐き気は止まった、と言うようにした。

頑固なほどに揺るぐことがない自意識が、内田篤人の本当の魅力なんだと思わせられるのは、

第3章 男らしく生きたい —内田篤人の人生訓22−

背番号の数に合わせた22のポリシーには、

「言い訳や文句は、言うべきではない」
「目標は公言しない」
「努力や成功は、本来見せびらかすものではない」
「感情は表に出さない」
「自分の決断に誇りもつ」

といった、気骨溢れる文言が並びます。

やさしく涼しげな表情の奥にある、鋼のような自意識に共鳴したのか、読みながら、知らず知らず涙が流れてしまいました。




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残せるものは、なんだろう?『はなちゃんのみそ汁』安武信吾・千恵・はな <自伝・自分史・その周辺108> 

26歳の若さで、乳がんに罹った安武千恵さん。
手術後、出産は望めないと思っていましたが、妊娠。
再発の危険を侵しながら、はなちゃんを出産します。

つねに死と隣り合わせにある生活の中で、千恵さんは、
はなちゃんが赤ちゃんのうちから、自立させることを考えます。

 私がいなくなっても、料理ができる旦那なら、安心です。
 なぜなら、ご飯を作ることは、生きることと直結しているからです。
 ムスメにも、包丁を持たせ、家事を教えます。
 勉強は、二の次でいい。
 健康で、生きる力が身についていれば、将来どこに行っても、何をしても生きていける。

赤ちゃんなのに、幼児なのに、はなちゃんは、
千恵さんと信吾さんが、病気に、人生に屈することがないように、
神様に使わされた天使のような存在になります。

 ムスメは、3歳になったばかりの頃、お風呂の中で私の傷口をさわりながらこう言った。
「ママ~、おっぱいちょきんって切られたの?
 痛かった? おっぱい買ってあげるね」

小泉元首相の言葉を借りれば、「感動した!!!」なんだか、切なかった。

「ありがとう。よろしくね。おっぱいちょきんってならないように、しっかりご飯とおみそ汁を食べるんだよ」というのが精一杯だった。

 何が何でも生きんといかん


はなちゃんがいるから、がん治療にも生きることにも耐えられた千恵さんでしたが、
33歳。がんの再発、全身転移で息を引き取ります。

千恵さんを亡くした後の信吾さんは、喪失の痛みの中で、身動きが取れない状態でした。
千恵さんの遺影の前で、一升瓶を二日でからにするほど飲み、タバコも安定剤も手放せなくなっていました。

しかし、どんなに遅くまで飲んでいても、朝5時30分には起きて、はなちゃんを保育園に送り、職場へ向かう。

そんな生活を続けるある朝、

 はなは、つらそうに台所に立つぼくを見て、包丁を取り出した。
 はなは豆腐を小さな手のひらの上に乗せた。
 ゆっくり豆腐を切ると、ガスの火をつけ、カツオ出汁を張った行平鍋の中に入れた。
 手慣れた作業だった。

 
 いつものように、朝食の支度をしていると、ゴミ箱の中に開けたばかりのタバコが捨ててあった。
 朝ご飯を食べながら、はなに聞いた。
「パパのタバコが台所のゴミ箱の中に落ちていたんやけど」
「ああ、あれ。はなが捨てたよ」
「どうして捨てたの?」
「だって、タバコを吸ったら、がんになるって、ママが言ってたじゃん。
 吸わないって約束してたんじゃないの?
 パパががんになって死んじゃったら、はなは一人ぼっちになるんよ。
 パパは、はなが一人ぼっちになってもいいの」
 はなは涙声になっていた。

はなちゃんの決意から、親子の再生がはじまりました。

はなちゃんは、いま小学生のはなちゃんであると同時に、千恵さんに代わってお母さんでもある。

千恵さんが、命をかけてこの世に産み落とした、はなちゃんは、
のびのびと楽しく、今日も、みそ汁を作っています。



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きちんと生きる「独居」。『94歳。寄りかからず。前向きにおおらかに』吉沢久子 <自伝・自分史・その周辺107> 

悲しく、寂しく、悲惨なものの代名詞のようにいわれる「独居老人」。
文芸評論家であった夫 古谷綱武氏を喪ったあと、三十年近く独りで生きてきました。
しかし、吉沢さんの独居生活は、悲しくも寂しくもないようです。

「家事評論家」としての仕事と、仕事ではない家族のための家事とに追われていていた吉沢さん。
姑、夫を続けて見送り、家族のために忙しく動き回る生活から解放されました。
「24時間、すべてが自分の時間」という事実に驚きながら、とても軽やかで、贅沢な気持ちになったようです。

いかに楽しく、美しく生きるか。

「能力は使わなければ衰える」と言い切って、その気概を示します。

90歳越えての独居を危ぶむ人は、
「バリアフリーにリフォームしたら」とすすめます。
でも、バリアフリーにしたら、自分が注意力をなくしてしまいそうで、このままでいようと吉沢さんは考えます。
古い家には段差があり、そのことを知っているからこそ、足元に注意して歩きます。

真夜中に電気をつけずに家の中を歩いても、何歩歩けば段差があるから気をつけるようにと、自分のからだが覚えていて、
注意をうながすのだ。


「衰えないように」と努めるだけではありません。
健康のために、食の楽しみのために、自宅の庭につくった菜園には、自分の好きな食材を育てています。
そして、それを食卓に上らせ、食べ物を大切に味わいます。

さらに、日々をよりよく生きるために、新しい情報や、若い人からの知識の吸収も怠りません。

そんな吉沢流の生き方も、昨年は心乱されることも多い年でした。

ふり返れば、昨年はとくに大変なことの多い一年でした。
東日本大震災のため、たくさんの方が亡くなったり、家や仕事を、そして家族までを、いっぺんに失ったりと、
国難ともいうべき不幸なことがありました。
そのあと始末は、いまだにきちんとできていません。
 地震や津波だけだったら、あと始末はもっと早くできたでしょうが、原発の問題だけは次々に起こっています。
最高の人知を集めての文明の利器にも、なお人間の力の及ばないものを見せられた思いで、
これからの生活をどうしていくかを考えさせられた年でした。


94歳にして、真摯にこの国の未来を思う。
生き方のお手本を見せられた気がしました。



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「アスペルガー」という個性。『アスペルガーですが、妻で母で社長です。』アズ直子<自伝・自分史・その周辺106> 

大人の発達障害が、注目されています。
最近では、アスペルガーなど、発達障害に関する情報はいろいろ得られるようになり、
子どもは早期に診断を受けることが容易になりました。

しかし、子ども時代に診断名が付くことなく、大人になってしまった人もいます。
自分の行動が、なぜ人に受け入れられないのか、なぜ人に責められるのか、なぜ、相手を不快にさせてしまうのか、
それが理解できず、社会で孤立してしまう人もいるのですね。

アズ直子さんも、そんな一人。
結婚し、子どもも生まれてからも生きづらさを抱える暮らしの中で、
アスペルガーで、ADD(注意欠陥障害)と診断されます。

誰にも理解されずに、
「片付けができない、だらしない人」
「変なことに妙にこだわる人」
「人との距離感が取れない人」
と思われていた直子さんが、なぜそう思われてしまうのかの理由がわかったのです。

そこで、直子さんは、考えました。
アスペルガーの弱点を活かし、さらにそれを個性に変えて、人と上手くやっていく方法があるはずだ。

それが、この本の副題になっている
「私が見つけた“ひととうまくいく”30のルール」です。

たとえば、「腕1本ルール」。
人に近づきすぎて、相手を不快にさせてしまうことがないよう、腕1本分人と離れてポジションを取る。

あるいは、「タイマーを使い倒そう」
なにかに集中してしまうと、約束の時間も、食事も眠りも忘れてしまう。
そこで、「終わりの合図」としてタイマーを鳴らす。

家族のルールには、「なるほど!」と感じ入りました。
それは、直子さんが、アスペルガーであることを周囲にカミングアウトし、
弱点をさらけ出すと決めて可能になったルールです。

「家族の逃げ場もつくろう」
親がアスペルガーだと、実は、育てられる子どもが辛い。
親の言動行動に振り回されることもあります。
子どもらしい行動を我慢しなければならないこともあります。

 11歳の娘は、ときどき私に対して、激怒するほど嫌になることがあるそうです。
 そこで、おばあちゃんの家や、学校の友達の家、相談相手として、習い事の先生などを頼りにしているようです。
 ときには、そうした駆け込み先から、娘の限界を知らされることがあります。
 そうしたサポートを得るためにも、日頃から周囲の理解を得ておくことが大切です。

・ 空気が読めずに浮いてしまう。
・ なぜか会話が噛み合ない
・ 時間を守るのが苦手、規則やルールにこだわる。
・ 予定を変更されるのがイヤ、音や光に敏感。
・ 周囲も自分も傷つけてしまう。

いま困っている発達障害の大人に、参考になる、実践的なルールです。





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それでも、死なない。『困ってるひと』大野更紗 <自伝・自分史・その周辺105> 

何人もの医者が匙を投げた難病に襲われた大野更紗さんが、その病名を確定するために受けた数々の検査の凄まじさは、途中で本を閉じたくなるほどでした。

身体の二ケ所に、麻酔なしで針を刺し、そこに電流を流し、筋肉中の神経伝達速度を測る。
やはり、麻酔を使わず、身体の数ケ所から、生きた筋肉を切り取る。

大学院でビルマの研究をしていた更紗さんは、「こういう拷問に耐えているのだろうな」と、ビルマの政治犯に思いを馳せます。

やっとのことで付いた病名は、「皮膚筋炎」と「筋膜炎脂肪織炎症候群」。
治療法の確立されていない難病中の難病です。

病名は付いたものの、そこからさらに、果てしない闘病がはじまります。
快復の見通しも見えぬままの更紗さんの前に、あるとき主治医のクマ先生(更紗さんがつけたあだ名)が現れて、言いました。

 「この619号室のシャワー室に鍵かけて、シャワー流しっ放しにして、カミソリで手首でも切ろうと思ってるんでしょ。
 だいたい、考えていることは、わかりますよ」

 当時のわたしは、食べたい、寝たい、そういう日常的な「欲求」と同じレベルで、「死にたい」と感じた。
 朝・昼・晩と毎日わたしの様子を気にかけ、ほぼ休みなし、全力投球で治療に励んでくれている主治医に、「死にたい」とは言いにくい。かなり申し訳ない。
 だが、思いきって正直な気持ちをそのままクマ先生に伝えてみた。


 「はい」と、先生は嫌な顔ひとつせず、微動だにしなかった。
 「それは、苦痛から逃れたいという、ごく当たり前の人間の反応、ですよ」
 クマ先生は、難病ビギナーの「死にたい」妄想など、最初からお見通しである。
 

クマ先生他の先生やスタッフも、更紗さんのすべてを受けとめようとしてくれました。
しかし、患者本人ではない。その病気の責任者は自分自身であることを更紗さんは自覚しています。

 薬を呑み込み、症状に耐えるのは、わたし自身だ。先生はわたしの命綱であり、伴走者だが、肝心のわたしが歩かなくてはどうしようもできない。
 医療が、主治医が、人間の生きる動機そのものを与えてくれるわけではないのだ。

更紗さんは、全快したわけではありません。
9ヶ月の入院治療を終え、難病を抱えたまま、通院しながら自立する道を選びました。
そんな彼女が、いまなお、医療問題、社会制度で、どのくらい困っているのか。
それを伝えるために、『困ってるひと』を書きました。

検査や治療過程での苦しさは、患者にとっては、思い出すことさえ大きな苦痛となるトラウマとなることでしょう。
この本を読んだ人は、だれもが、「自分じゃなくてよかった」と、胸を撫で下ろすことでしょう。
正直私もそうでした。
「死んでしまう方が、よほどラク」
そう思うような病いです。

この難病に罹ったのは、25歳の若い女性。
彼女の「生きる動機」が、この本になり、難病への想像力など皆無の私たちに、難病の現実に向き合わせてくれました。




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質も量も圧倒的に。『たっぷり生きる』日野原重明x金子兜太<自伝・自分史・その周辺104> 

先頃、100歳を迎えられた聖路加病院理事長 日野原重明先生。
何度か講演会でお話を聞いたときも、椅子に座らず、正しい姿勢で立ちっ放しで90分。
凛としたお姿に感銘を受けます。

俳句界の重鎮 金子兜太氏が昨年行った対談の模様です。
このとき、金子氏90歳。
普段は歯に衣着せぬ舌鋒鋭い金子氏。
なぜか、「120歳まで生きる」と標榜する日野原先生に、素直に教えを乞う対談スタイルになってしまいました。


金子  
九十からの自分の生き方をなんとか先生から学びたい。
先生は九十四歳のとき、朝日新聞に、「人生、こらからが本番。佳境に入る」ということをお書きになっておられました。

日野原  
いままでの私の生涯は序曲のように思えるのです。人生は五十歳で前半、後半と別れるのではない。
年月による前半後半でなしに、ハーフタイムはだんだん後に来るのです。そして、後半が激しくなる。
あとに来る人生のほうが濃縮する。それまで分からなかったことが、いろいろと分かってきますよ。

これ、私もとてもよくわかります。
「自分史」というものをいろいろ読んでいると、「前半生」でやり終えたと考えている人が書いたものは、総じて面白みが少ないと感じます。
「前半生」はこうだった。でも「後半生」は未知数だ。
そんな考え方をしている人の「自分史」には、人を惹きつけるパワーがあります。


八十歳から、「走らない、急がない」と決めた金子さん。

金子  
走って転んだりすると骨折しますね。それを避けるためということです。
そのために遅刻するのはしょうがない。
先方には申し訳ないけれど自分の体を守るためということです。

日野原  
歳をとったらなるべく「あるがまま」がいいですね。


ところが、「あるがまま」の自然体を通そうとすると、ますます気持ちがふわついて、朝モヤモヤしてしまうという金子さんに、日野原先生は、こんな助言もします。

日野原  
九十以降になりますとどうしても運動量が落ちてしまう。(中略)
JRや空港などではエスカレータや動く歩道などには絶対に乗りません。
階段を使って、むしろエスカレータに乗っている人を追い抜きます。
追い抜いたときには気持ちいいですよ。達成感がある。
空港では、動く歩道を歩いている人の横を、荷物を持って私が速歩でさーっと追い抜くんです。
苦しいですが、追い抜いたら「やったあ」と思います。
そういう達成感が人間にますます「気」を出させる力になっているのでしょう。


う~ん。この本を読んでいると、日野原先生は、本当に120歳まで生きるだろうと思えてきました。





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難病が教えてくれたこと。『神様は、いじわる』さかもと未明<自伝・自分史・その周辺103> 

さかもと未明さんが育った家庭は、居心地の良い家ではありませんでした。
酒を飲むと酔って暴れ、母を殴る父。
殴られても抵抗できず、ただ黙って我慢する母。
妹と弟が一人ずついる長女は、父親と激しく対立します。
その未明さんを理解してくれたのは、年老いた祖母だけでした。

早く家を出て、自立したい。
家を出て、それまで貧しかったために諦めていた漫画家にも、どうしてもチャレンジしたい。
安定した企業に勤めることを求める親の了承を得られず、未明さんは勘当同然で家を出ました。

持ち前の負けん気と努力で、漫画家として仕事も入るようになっていた矢先、身体に不調を覚えました。
大学病院での診断は、「全身性エリテマトーデス」。聞いたこともない難病でした。

「あの、で、どうしたらなおりますか?」
そう聞く未明さんに、医師は、
「なおらないから、難病なので、でも悪くならないように最大限努力しましょう」診察した蘆田医師は、答えました。
「全身性エリテマトーデス」と「強皮症」は「膠原病」の典型的な症状です。

子どもの頃から、親から自立することだけを考え、同じ年頃の女性たちと一緒に遊んだ経験のない未明さんには、友人はいません。
病気になったからといって、だれにも頼ることはできませんでした。

次第に、身体は疲れやすくなり、漫画家の命である手は強張り、思うように動かせなくなります。
発病の苦しさに加え、出版不況により、これまでの仕事も次々打ち切りになります。
なぜ、こんなに辛い目に遭わなければならないのか。
絶望的になったときに、手を差し伸べてくれる人もいました。

「拉致問題」を取材し、ルポを書いたときに知り合った横田滋・早紀江夫妻は、娘めぐみさんと同年齢の未明さんと親しく接してくれました。

尊敬する漫画家の先輩、槇村さとる先生は、苦境の未明さんをやさしく包んでくれました。

 「先生、未明がんばるね」
 いうわたしの手を、先生はそっと握ってくれた。「ほんとうに冷たいね。なんでこんなになるまで働いたの?」
 と悲しそうにいってくれた。先生は人の心に寄り添うことを知っていた。
 わたしはそれをずっとできなかったから、だからそういう人間らしい気持ちを少しは勉強するように、神様病気をくれたのかもしれなかった。
 わたしも槇村さとる先生の何分の一かでも、人にやさしくなりたい。

一人で、頑なに生きることを選んできた未明さんですが、難病になり、人に閉ざしていた心を開くことを覚えます。
いまでは、両親とも和解し、家を出て以来会ったことのなかった、成長した弟にも会いました。

もっと、人を信頼していい。
神様が、未明さんに教えてくれたのかもしれません。



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いのちを癒す森。『あなたに喜んでもらえるように』佐藤初女<自伝・自分史・その周辺102> 

岩手県の岩木山のふもとに、「森のイスキア」と名付けられた宿泊施設があります。
広大な森の中に、こじんまりとした宿。
そこは、傷つき疲れた人たちを迎え入れ、心のこもったおもてなしで癒してくれる場所です。

佐藤初女さんは、森のイスキアの主宰者です。
有志からからの寄付で、買った土地を、穏やかでやさしい森に育て、居心地の良い癒しの場所にしました。
そして、「食べることは、命の移し替え」という考え方のもと、土地に育つ旬の食材を使い、丁寧に調理し、旅人に滋味豊かな食事を振る舞います。
その生き方は、「生物多様性」なんて言葉がなかった時代から続いて来ましたが、明らかに地球とすべての生物が共生することを目指しています。

さらに、傷ついた旅人の話をとことん聴いてくれるカウンセラーにもなります。
その活動に私利私欲はありません。
すべての行動は、「人のために」です。

ある講演会で、一人の男性に言葉をかけられたときのエピソードが、初女さんの考え方の裏付けです。

 「いのちって、どういうことですか?」
 あまりに急な質問に驚きながらも、とっさに私は答えていました。
 「生きることですよ」
 すると、その人はさらに尋ねました。
 「生きるってどういうことですか?」
 「人は誰かに仕えるために生まれてきた、と言われますので、人のお役に立つように生きることですね」
 そう、お答えしたら、
 「はい! わかりました!」
 と元気に言い、足取りも軽く帰っていきました。

人を癒す達人である初女さんも、ときには迷い、悩むことがあります。
自分の気持ちが揺れていることをとても心細く感じてしまいました。

 ちょうど、神父さまとお会いする機会があったので、「私はよく揺れるんです」とお話したところ、 「揺れてもいいんだよ」とおっしゃるのです。
 「あれ? どうして揺れてもいいんだろう?」と思いながら、「揺れると言っても、大揺れに揺れるんです」と言うと、「大揺れに揺れても、一本芯が通っていれば、それでいいんだよ」

 そのひとことで、私ははっとしました。揺れること事態は、決して悪いことではない。
 だから、揺れることを不安に思うのではなく、芯の通った人間になればいいだけなんだ、と考え方を変えることができたのです。


含蓄に富んだ言葉がいっぱい。
傷ついたときには、「森のイスキア」を訪ねればいい。そう思えます。




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世界は素敵だと思ってほしい。『子どもが育つ魔法の言葉』ドロシー・ロー・ノルト<自伝・自分史・その周辺101> 

「世界中の親が共感した子育ての知恵100」の副題がついています。
10年ほど前に、皇太子殿下が感銘を受けたとして、ドロシー博士の詩「子は親の鏡」をご紹介されたことで、たいへん有名になりました。

ドロシー博士は、長年家族療法や家庭教育を教えてきました。
彼女が語り続けることは、とても明確です。
子は親の鏡だから、子どもの一生が、親からの伝える言葉で決まってしまう。

そのために、親はどのように、子どもに言葉をかければいいのかを、100の知恵で伝えてくれます。

たとえば、「叱られると子どもはがっくりしてしまう」で語られるのは、

 親が子どもを叱るのは、たいてい、子どものことを思ってのことですが、それが子どもにはわかりません。
 子どもは、叱られると、頑張ろうと思うよりも、がっくりしてしまいます。
 とくに、幼い子どもは、叱られると、自分が嫌われているのだと思ってしまいます。


たしかにそうです。
親は行動について叱っているのですが、子どもは自分が拒絶されたのだと思い、心にキズを作ってしまいます。
叱るときこそ、親は子どもを心の底から愛していることを伝えながら、しかし、「行動については叱る」という姿勢を貫かなければなりません。

「なぜ、文句ばかり言いたくなるのか」では、文句を言いたいとき、親はどう対処すればいいかを教えてくれます。

 子どものやったことに、いちいち文句が言いたくなる。なぜでしょうか。
 それは、その子がどれだけできたかをではなく、どれだけできなかったかを見てしまうからです。
 こんな否定的なものの見方は、大人だっていやだと思います。
 その子がどれだけできなかったかをではなく、どれだけできたかを見てあげてください。
 そして、どうすればその子の行動がもっとよくなるか、具体的にアドバイスしてください。
 子どもを否定するのではなく、肯定しながら、導いてあげるのです。


親の対応の仕方しだいで、子どもは生きることに肯定的になります。
でも、その対応の仕方しだいで、「生きることは辛いだけ」と思い込んでしまうこともあるかもしれません。

「世界は素敵だ」と子どもに思ってもらいたい。

子どもは親の鏡ですから、親もまた、子どもの鏡です。
親がまっすぐ生きている姿勢を見せていれば、子どもに、歓びに満ちた人生が映し出されるのだと思いました。



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手足がない普通の女の子。『あきらめないで』佐野有美 

先天性の四肢欠損症で生まれた有美さんに、あるのは左足と三本の指だけ。
できないことを嘆くより、できることを最高に楽しくやりとげる。
彼女の生き方は、TVでも何度か特集されています。

佐野有美さん自身が、『手足のないチアリーダー』に、出生からこれまでの人生を書いています。

やりたいことなら、どんなことにもチャレンジする。
どこまでも前向きな有美さんが書いた詩集は、『あきらめないで』。
あきらめてしまう五体満足な私たちへ、有美さんからの応援メッセージのようです。

 「心がすべて」
 手がなくても
 足がなくても
 心が欠けていなければ
 それでいい

 「残したいこと」
 あきらめることは 簡単
 努力することは 難しい
 あきらめて残るのは 後悔
 やりとげて残るのは 達成感
 残したいのは 生きた証し

 「わたしの役割」
 人間って 誰もが役割をもって
 生まれてくるんだよね
 わたしは……
 いつも笑顔でいること


この詩を読んで、「こうしてはいられない」という気になりました。




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母が探し求める答え。『息子よ 真実のパク・ヨンハ』オ・ヨンラン <自伝・自分史・その周辺99> 

昨年の6月、パク・ヨンハさんは自殺しました。

パク・ヨンハさんが、家族を愛し、非常にファンを大切にする人だということは、ファンの間ではよく知られていました。
ファンならずとも、彼の笑顔を見れば、その誠実な人柄が伝わってくるはずです。

母、オ・ヨンランさんは、いまだに息子の死に納得がいっていません。
彼が死を選んだ理由についての、世間の憶測や、根拠のない噂や誤解に応えるために、書いたのが、『息子よ 真実のパク・ヨンハ』です。

韓流ドラマを見ていると、よく1997年のアジア通貨危機で破産した企業家や、失業したエリート会社員。学校をやめて働きだした青年などが登場します。
主人公の生活が一変し、多額な借金を抱えて苦悩するストーリーのドラマを見ると、十数年前の通貨危機がいまだ韓国社会に深い傷跡を刻みこんだことを思い知らされます。

パク家も、アジア通貨危機の波に呑み込まれた家庭でした。

タレント事務所を経営していた父の会社が倒産し、多額の負債を負いました。
その借金を、俳優の仕事をしながら、少しずつ返済したのは、ヨンハさんでした。
父母、そして、5歳年上の姉を守るために、働き続けます。
さらに、父親ががんを発病し、ヨンハさんは経済面のみならず、精神的にも、パク家の支柱になりました。

 近くで息子を見ていた私には、亡くなる間際のヨンハは、本当に頼もしくて凛々しく、そして生命力にあふれた印象です。
 なにか辛いことがあったからといって、自死を選択するような悩みを抱えていたようには思えませんでした。
 そもそも、息子は、自殺のニュースを見るたびに、
「なんで自ら命を絶つなんてできるのかな。辛いことがあっても、命さえあれば頑張れるものなのにね。
 たとえ命を懸けるようなことがあったとしても、自分の弱さに負けてではなく、家族や愛する人を守るための死だったら、理解できるかな」


母ヨンランさんは、ヨンハさんが家族を残して自死したことが信じられません。
当時、ヨンハさんは、日本でのライブのスケジュールのために、余命3ヶ月の父の側にいられないことに悩んでいました。
でも、決してライブをキャンセルすることはありませんでした。
家族と別れて、日本に出かけるときも、

 「きっと、自分の病気のせいで僕が(日本に)行かないなんてことになったら、お父さんが責任感じてしまうからね。頑張ってくるからね」

そう宣言したそうです。

こんなことを言える息子には、自分が死を選ぶことが、どれほど残された家族を苦しめるか、よくわかっていたはずです。

しかし、死を選んだヨンハさん。
あまりにも強い責任感のために、ふと魔が差してしまうということがあったのかもしれません。

ご冥福をお祈りします。




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勝利のための、30分。『心を整える。』長谷部誠 <自伝・自分史・その周辺98> 

「勝利をたぐり寄せるために56の習慣」と、副題がついています。

サッカー全日本のチームキャプテンの生き方は、自律的にして求道的。
これだけストイックに、チームの勝利への貢献を考えることができる27歳。
自分の生き方の自堕落ぶりが恥ずかしいと思ってしまいました。

長谷部選手の日常的な思考のすべてが、最優先でチームの勝利へ繋がっています。

「一日の最後に必ず30分、心を鎮める時間を作る」のが、彼の入眠前の日課です。

長谷部選手にとって、「心を整える」ことは、単に、興奮を鎮め、リラックスすることだけではありません。

「心を整える」 → 「自分自身としっかり向き合う」 → 「よい睡眠を取る」 → 「翌日、最高のパフォーマンスをする」

一日の最後に、心を鎮めることが、明日の全日本チームの勝利を約束するのだという信念です。

長谷部選手のチームへの貢献は、ただ、目立ったプレーをすることではありません。
日本の浦和レッズでプレーしていた頃の長谷部選手は、攻撃的なミッドフィルダーだと思われていました。
ところが、ドイツのヴォルフスブルグでは、組織全体を見渡した守備的なプレーに徹しています。

 中盤から攻め上がる選手がいたら、自分は中盤に留まって相手のカウンターに備える。
 みんなが疲れてきて動きが落ちてきたなと思ったら、人の分までカバーして走る。

 自分の良さをピッチで表現したいという欲やエゴより、組織の成功を優先してきた。

浦和レッズ時代からのファンは、「長谷部はもっと攻撃的なプレーをすべきだ」と感じているだろうとも思っています。

 けれど、「自分を殺すこと」と「自分を変えること」は違う。
 僕は、ヴォルフスブルグで、自分を殺してプレーしているだけじゃない。

 これからも、僕は、組織のために足りないものを補える選手であり、組織において不可欠な人間でいたい。
 そうすれば、たとえ目立たなくてもピッチに立つことができるだろう。


組織の中で、自分の力をどうやって最大限に活かしていくかを、長谷部選手はつねに考えています。
それと同時に、どうやって組織を動かしていくかということも、考え続けているのですね。
20年後の、全日本チーム、長谷部誠監督が、楽しみです。




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失っても残るもの。『妻を看取る日』垣添忠生 <自伝・自分史・その周辺97> 

国立がんセンターの病院長を長く務められた垣添忠生医師。
皮肉にも、最愛の妻を小細胞がんで見送ることになりました。
「国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」と副題が付けられた本。
文字通り、妻の闘病から死を看取り、そして、その後訪れたうつ状態に苦しみ、しかし、その中から再び立ち上がるまでを、つぶさに描いています。

若い頃から膠原病を患い、病弱であった妻、昭子さん。
それでも元気なときには、夫の忠生さんと一緒に、カヌーに乗り、ハイキングを楽しむ行動的な女性でした。
しかし、がんに侵されてからは、転移を繰り返し、最先端の陽子線治療も功を奏しませんでした。
手術に耐え、抗がん剤の苦しさにも耐えてきた昭子さんは、本当は治療を中止し、そのまま静かに残された時間を過すことを望んでいたかもしれません。
しかし、夫は国立がんセンターの病院長。
その妻が、なにも手を施さぬまま、がんに負けることは許されないということもわかっていました。

 本当のところ、妻は抗がん剤の効果を信じてはいなかったのではないかと思う。
 やはり、全身への転移を知った時点で、妻は自分の命をあきらめていたように思えてならない。
 それにもかかわらず化学療法を受け、激しい副作用に耐えたのは、結局は私のためだったのではないだろうか。
 何とか妻の命を救いたいと必死になっている私の期待に、全身で応えようとしてくれていたのだろう。


垣添さんの献身も、昭子さんのがんばりも空しく、2007年末、外泊を許された自宅で、昭子さんは亡くなります。

妻を失った後の垣添さんは、いままで以上に仕事に打ち込みます。集中している間は、昭子さんのことを思いださずにすみます。

 問題は、夜である。
 寒風の吹きつける中、コートのえりを立てて帰宅すると、明かり一つ点いていない家が待っている。
 日中、誰もいない部屋の空気は冷えきっていた。
 祭壇の写真の前に座り、妻に今日の出来事を報告する。
 だが、いくら話しかけても答えは返ってこない。妻はもういないのだ。
 この事実が堪え難かった。


 「もう生きていても仕方ないな」
 何度、こう思ったか知れない。
 そして、この考えを打ち消してくれるのもまた、妻なのだった。
 そんなことをしても、妻は決して喜ばないのだから、と自分に言い聞かせた。


その苦しみの中から、垣添さんは立ち直りました。
やっと未来を考えられるようになり、いまは執筆や講演活動に忙しい、亡き昭子さんが望まれたであろう生活を送っています。




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150万円のボランティア活動。『僕たちは世界を変えることができない。』葉田甲太<自伝・自分史・その周辺96> 

「なんかおもしろいものがないかなあ」

郵便局の順番待ちで、暇をもてあましていた医大生が、たまたま「ボランティア基金」のラックから気まぐれに手に取ったパンフレットでした。

「カンボジアの子供たちに屋根のある学校を。あなたの150万円の寄付で教室が5つもある学校が建ちます」

「150万円で学校が建つ」のコピーに、一気に楽しくなってしまった葉田甲太くんは、サークル活動のノリでボランティア活動をはじめます。

携帯に入っているアドレスに、片っ端から、「チャリティーイベントでカンボジアに小学校を建てよう!」とメールを送ります。
そのメールに乗ってきたのが、甲田くんと同じく医大生の3人。

4人で、クラブイベント、チャリティーコンサート、ワールドカップの観戦イベント。
大学生で考えられる限りの、あの手この手の募金活動をはじめます。

全然大上段に構えていないところが、甲太くんのカッコよさです。
社会貢献とか、国際支援とか、そんなのはどうでもよくて、ただただ、学校が建ったときを想像してうれしくなってしまう。
少しずつ資金が溜まっていき、次のイベントを考える様子は、シュミレーションゲームで、だんだんレベルが上がっていき、ゲームクリアが少しずつ近づいてくるときの高揚感に似ているのかもしれません。

とはいうものの、人はボランティアだけでは生きられません。
実のところ、医大生ですから授業もある。試験もある。研修もある。
悩み多き二十歳でもあります。

  いつからか、面倒くさい仕事は全部メンバーに押しつけて、肩書きだけの「代表」になっていた自分。
 「ボランティアしているなんて、偉いね!」と女の子に言われるたびにいい気になっている自分。

自己嫌悪にも襲われます。
そんな甲田くんの活動にリアリティを与えてくれたのは、実際にカンボジアで出会った人たちの笑顔でした。
プロジェクトが進んで、何回かカンボジアへ行くようになると、現地の子供たちが喜ぶ笑顔が、彼の最大のゴホウビになりました。

150万円でカンボジアに学校が建つことを知ってから、1年。
甲田くんは、開校式で、こうスピーチしました。

 僕は学校ができてうれしいです。
 でも、僕にはもっとうれしいことがあります。
 それは、君たちが勉強して立派な大人になることです。
 これは、終わりじゃなくて始まりです。

 約3年のポルポト政権以降、カンボジアのいくつもの政権が争い、
 フランス、ベトナム、アメリカなど、様々な国が介入し、
 まだまだ真の独立を果たしているとは言えません。

 本当の自立とは、君たちが君たちの手で、君たちの国を良くしていくことです。

スピーチに、この本のタイトル、『僕たちは世界を変えることができない。』の、真の意味が込められていました。





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生還した人からのメッセージ。『うつから帰って参りました』一色伸幸 

『私をスキーに連れてって』や『彼女が水着に着替えたら』などの脚本家である一色伸幸氏。

若い頃から頭痛薬を呑みながら原稿を書くのを日常としていました。
街中の薬局を巡り、合法的なドラッグを買い漁る毎日。
やがて、医者の処方薬の絶大な快感を覚え、東南アジアに行けばその薬が処方箋なしでいくらでも買うことができることを知ります。
そうなるともう、疑いようもない薬物中毒です。

本人は、創作の糧として薬に頼っているつもりでした。薬を呑めばハイになり、執筆に集中でき、思うように書ける。
薬で作られた躁状態の中で仕事を続けましたが、その間に、本当のうつ病に脳は支配されていました。

ほとんど廃人のようになった夫を見過ごすことができなくなり、妻は夫を無理やり精神科に連れて行きます。
医師から、うつ病だと病名を言われ、夫もやっとこれまでのやっとこれまでの自分の行動を理解することができました。

 病人誕生。
 晴れてうつ病という病名を得て、その日からは寝て暮らした。

フリーの脚本家で、自由に休むことはできる。これまでの蓄積で、経済的にも困ることはない。恵まれた闘病生活の中で、生まれたのは、

 「死にたい」

という気持ちでした。

 しかし、身体が重く、トイレに行くことさえ億劫で、無気力な身には、飛び降りるにせよ首を吊るにせよ、自殺を企てるのは途方もない大仕事だ。

 消えてなくなりたい。

 これが、一番、近い。


でも、結局、一色氏は消えてなくなることはしません。
実際に、うつ病になり、その状態をのたうち、苦しみ、やっとのことで生還した一色氏が振り返る「うつ状態」は、教科書にはない臨場感があります。
たとえば、
「脳味噌がサランラップにくるまれている。笑ったり楽しんだりということを実感できなくなってしまっているのだ」

うつ病の人から表情が消えてしまったり、こちらからの働きかけにリアクションが取れなかったりするときがあります。
サランラップに隔てられた自分自身の脳に、うまくアクセスできない状態なのかもしれません。

 どういう病気であるかを理解してもらえない。それがうつ病の一番やっかいな点だ。
 仮にうつ病一般について把握してくれていても、問題は「僕のうつ病」や「あなたのうつ病で」で、脳の中で起こる現象だから個人差も大きい。
 分かりにくく、分からせにくいのだ。


結婚以来ずっと薬物依存状態だった彼は、十年以上、夫として、また二人の息子の父として、細やかな愛情を注ぐことはできていなかったようです。
でも、彼を生還させたのは、一色氏の奥さまであり、家族だったのだと思います。

身近にうつ病の方がいる人に、ぜひ、読んでほしい本です。




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少数派の感じ方。『親子アスペルガー ちょっと脳のタイプが違います』兼田絢未<自伝・自分史・その周辺94> 

5歳の長男が、知的障害のない自閉症「アスペルガー症候群」との診断を受けた兼田絢未さん。
医師の語る症状や特徴が、自分にも当てはなるのではないかと思い、診察を受け、37歳で自分もアスペルガー症候群と診断されました。
続いて次男も、つまり母子三人が同じアスペルガー症候群です。

絢未さんには、子どもの頃から人と同じようにできない感覚はありました。
人が多い場所が苦手、見えすぎる、聞こえすぎる、敏感すぎるために、辛さを味わってきた絢未さんには、二人の息子がいま体験している困難がよく理解できます。

私たちは「少数派」。多数派の人たちとは少し脳のしくみが違っています。
絢未さんは、長男に自分たちの「障害」について、こう説明しました。

  「障害」

 障害ってのはね、「みんなと同じことが、みんなと同じやり方できなくて、少し不便なこと」です。
 それは、恥ずかしいことでもないし、悲しいことでもありません。
 足が不自由な人は、車イスや杖を使います。
 目が見えない人は、白い杖を使ったり、盲導犬の力を借ります。
 耳が聞こえない人は、補聴器という機械を使ったり、手話でお話しをします。
 障害のある人は、みんなより不便だけど、いろんな工夫をして、精一杯に生きています。
「ちょっと手伝ってください」と言われたら、お手伝いして上げてくださいね。


最大の理解者である母は、多数派の感じ方を少数派の息子たちに説明できる立場です。
それでも、アスペルガーの症状がすべて同じわけではありません。母にも理解できないことも多くあります。

次男は、3歳から4歳くらいのときに、急にお母さんベタベタするようになったそうです。そのときのことを、小学生になってから振り返って話してくれました。

 保育園で自分のお世話をしてくれる人は「先生」という仕事をしている人。
 家でお世話をしてくれているのは「お母さん」というお仕事をしている人だと思っていた。
 保育園では「先生」が何人もいて交代するのに、
 どうして家ではいつも同じお母さんなのかと不思議だった。
 年少クラスになって、お友だちみんなに「お母さん」がいることを知り、
 やっと「ぼくだけのお母さん」ということがわかった。
 それがわかったら急に「お母さん大好き」になった。


アスペルガーの人たちの脳に、なにか欠けている部分があるということは、理屈ではわかっています。
でも、自分を生んだ母との絆は、子どもにとっては脳の中でも「本能」「無意識」のエリアにプログラムされていると思っていました。
その部分が欠けていて、すべてを後天的に学ばなければならないとしたら……。
生育期に彼らが経験する困難の大きさを、あらためて知ることになりました。




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ブッダが残してくれたもの。『超訳 ブッダの言葉』小池龍之介 <自伝・自分史・その周辺93> 

かねがね、「仏教」は宗教ではないと思っていました。
ブッダが弟子たちに残した言葉の数々は、必ず守らなければならない開祖の教えというより、個人の自己鍛練のために、先生が残してくれた指導要項のようなものだと思っていました。

しかも、その言葉は、先生自身が自分の成長を目的として、実践の中から紡ぎだしたものです。
弟子に向けて伝えるときも、その言葉を選び取るかどうかは弟子に委ねるという、なんともゆるーい先生なのです。

超訳『ブッダの言葉』を編んだ仏教僧の小池龍之介師も、同じように考えているようで、こんなエピソードを伝えています。
ブッダを慕い、多くの弟子が集まってきたとき、一人のバラモン司祭が、バラモン教をやめるので、弟子にしてほしいと言ってきました。
彼に対して、ブッダは答えました。

「君はバラモン司祭として信者の人々に儀式をしてあげる宗教の仕事をしている。仕事を投げだして私のところに来たら無責任だろう。君は今のまま仕事を続けて、休みのときは、私に瞑想を習いに来ればいい」

ここからは、ブッダに教わるために、他の宗教を否定する必要はないのだということが読み取れることでしょう。

宗教ではなく、私たちがよりよい生をいきるための実践の言葉だと位置づければ、『ブッダの言葉』は、本当にたくさんのことを教えてくれます。
小池師の超訳が、私たちの傍らにつねに存在すべき言葉として、教典を生まれ変わらせてくれました。

「自分に与えられているものに幸せを見る」

 君の手に与えられたものがたとえどんなにわずかでも、君がそこに幸せを見つけるなら、「足るを知る」充足感で心はきれいに澄んでいく。
 そのきれいな心の波は、目に見えない高次の生きものたちを喜ばせて惹きつけるだろう。


「君は、これまで君の心が思ったことの集合体」

 君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結果のつぎはぎとして、今、ここに立っている。
 すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。


あなたの心に、染み入る言葉がきっと見つかるでしょう。



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頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。<自伝・自分史・その周辺 番外編> 

今回ご紹介するのは「本」ではありません。

私が書いているもう一つのブログ
「素敵な人に会いました」
で、
被災者に、「がんばれ!」と言ってはいけない。

という記事を書きました。
うつ病の人に、「がんばれ!」という言葉をかけると、さらに抑うつ感を高め、辛い思いをさせてしまう、ということがあります。

大震災の被災者である人たちも、事情は同じです。
自分の努力ではどうしようもない状況におかれたとき、「がんばれ!」が非常に負担になるってしまう、その事実を伝えようと思いました。
この記事は、私のブログ読者に反響を呼びました。いろいろなご意見をいただき、
さらに、
「がんばれ禁止令」を出してください。

「がんばれ禁止令」へのご意見、いろいろいただきました。

などの記事を書きました。

記事を書いているときの私は、「がんばれ!」と言ってはいけない相手は、家を亡くし、家族をなくし、なにか新たに行動を起すこともできないご年配の人だというイメージを持っていました。

だから、きっと、「がんばれ!」と言われたときに、自分の力ではどうしようもない無力感に襲われてしまう。
同時に、「がんばれ!」と言ってくれる人の期待に答えられない申しわけなさを感じて、ますます苦しくなる、という考え方をするのだと思っていました。

「がんばれ!」と言われて、激しい怒りを感じる人がいることに、思い至っていませんでした。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。

というブログ記事に出会いました。
震災ですべてを失ったお兄さんと電話で話した内容を記事にしていらっしゃいました。

頑張ろう、頑張ろうって言うけど、
家が流されたんだよ?

と、福島の兄に電話したら、言われました。



すげぇ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。
ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。
いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。
仕事もあるじゃんって。
おれ、船、なくなったんだぞって。
多分、漁師はもうできないと思ってる。
もう、なーーーんもない。
どう考えたら、今、頑張れるんだよ。

「結局、他人事だろ」という怒りがあります。たしかに、TVで見ているだけの人間に知ったような顔をされるのはたまらないでしょう。

ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか?
「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな」
とか言われたい。
「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから」
とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。


じゃあ、部外者である私たちは、なにをすればいいいんだろう?

「俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、
 東京も全部流されて、それでも「頑張ろう」って言われたら、
 頑張るよ。その人の歌なら聴く。
 知らないやつに、馬鹿みたいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、
 今は正直、消えてほしくなるよ。
 募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、
 町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。
 正直、ボランティアに「ありがとう」とか言うのも苦痛。」


被災地の現場で生きていく人たちに、連帯や共感を抽象的に示しても、意味がないのだと思います。
具体的に、実質的に、「こういうふうにあなたを支援します」と示さなければいけないのですね。

この記事、一度お読みください。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。
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