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SASUKEのオンエア、1月1日。 

例年だと、春秋に開催される
TBSのSASUKE2010。
1月1日(金)午後5時45分からオンエアです。

私、大好きな番組ですから、見られるのはうれしいんですけど。
前の長野誠さんの雄姿から3ヶ月って、ちょっと間隔詰まりすぎではありませんか?
私が職場の上司だったら、「えっ?またサスケに出るの!」と言ってしまいそう。
どうか、ご出演の皆さま、本職に支障のないように、でも全力を出し切ってくださいね。
(もう収録済みなので、結果は出ているのですけど)

さて、メルマガ「1日10分 1年で創る自分史」
お正月も休むことなく、元旦1月1日に発行します。

ご登録、お済みでない方は、ぜひ、こちらから、お願いします。

http://archive.mag2.com/0000289134/index.html
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目に見えるように書く。 

自分が体験したことを、読む人に伝わるように文章にするためには、自分自身の記憶をもう一度視覚化することが必要になります。
自分自身の記憶を時系列で振り返っていき、どんな事件があり、自分とどんなふうに関わり、そこで、なにを考えたか。そういうことをひととおり思いだしていきます。
自分の実体験ですから、映像として思いだすことはできるでしょう。
でも、あなた自身の記憶を再生しようとするとき、主観である「あなた」を視覚化することは、ちょっとむずかしいかもしれませんね。

あなた自身が登場する映像が視覚化できれば、他人に伝えるための文章が書きやすくなると思います。

そのとき、「鳥の目」「虫の目」の見方を使えばよいのです。

まず、あなた自身から離れて、視野を広げ、あなたを遠くから見る映像を「鳥の目」で視覚化してみる。
「修学旅行」がテーマの映像なら、あなたが電車に乗り、友だちと談笑し、名所旧跡を訪ねる映像として再現してみる。
あなたの周囲には、その時代の雰囲気や流行、社会情勢を映し出す、時代の共通記憶が再現されているでしょう。

今度は、あなたにぐっと近づいて、あなた自身を前から後から斜めからアップで見つめます。
友だちと交わした会話や、手にした土産物。寺院で見た仏像のやさしい表情。
それを見たときの心の中までじっくり見つめて、あなた自身が感じたこと、考えてことも描き出してみましょう。

彫刻家が、粘土の塊から作品を生み出していく作業に似ているかもしれません。作品に寄ったり離れたり、また寄って、ぐるり一周してみたりしながら、自分の頭の中にあるイメージを作品に置き換えていく。

「鳥の目」「虫の目」を使い分けて、視覚を変えながら見ることで、あなたが体験した修学旅行のデッサンが、できあがっていきます。

この作業から紡ぎだした文章は、読む人の目にも視覚化できるようなものになっていると思います。
「そういう体験、私もした」とか、「そういえば、同じようなことがあった」とか、「わかる、わかる、その気持ち」
そういう反応を引きだせる文章ができれば、大成功です。

鳥の目で見る。虫の目で見る。 

視点を変えてもっと意図的に書くことを考えてみましょう。

「鳥の目 虫の目」というのは、たしか寺田寅彦が書いていたことだったでしょうか。
「科学者は、鳥瞰図的に見る鳥の目と、接眼レンズ的に見る虫の目を両方持て」というようなことが書かれていたのだと思います。
小学校の教科書にも採用されていると聞いたことがありますが、この「鳥の目 虫の目」という考え方は文章修業中のスローガンとしても、実に効果的です。

「鳥の目で見る」とは、物事を俯瞰的に見ることですね。
対象とする物事だけでなく、周辺にあるものも含めて、広く見ることになります。

「虫の目で見る」とは、接写レンズで見るように、対象をクローズアップして見る見方です。

実際に、あなたが体験したある出来事は、あなただけの体験です。
でも、別の見方をすると、それは、ある時代の、ある社会の、多くの人が体験する出来事の中の一つというふうに見ることもできるでしょう。

たとえば、中学生時代の修学旅行のことを具体的に書くことを考えてみましょう。
その体験が30年前のことだとしたら、日本の経済状況や社会情勢によって、さまざまな影響を受けています。修学旅行という個人的な体験も、その年代の人の共通体験として位置づけられるのではないでしょうか。

「鳥の目」で見ることで、その時代の雰囲気や、流行っていたもの、生活水準など、同じ時代を生きてきた人ならわかる共通感覚を思いだすことができるでしょう。
鳥の目で、対象から離れて、見る見方が有効になります。

そういう時代の、そういう社会の中で体験した修学旅行ですが、それはあなた自身の体験であり、自分だけしか描けない特別のものでもあります。
それを描くときは「虫の目」で。離れて見ていたときに見過ごしていた細部を丁寧に見る見方が生きてきます。

花づくりより土つくり。『園芸家の一年』カレル・チャペック <自伝・自分史・その周辺35> 

いわゆる「オタク」が、自分の趣味嗜好への傾倒を正当化するために書いた文章を読むのは、正直かなり面倒くさいものです。
興味がない眼から見ると、その趣味のすごいところを畳みかけてくるハイテンションについていけません。

カレル・チャペックは、深い洞察をユーモアに溢れる文体で表現した小説家。
チェコ国民に敬愛され、その作品は世界中で読まれています。
また、新聞記者として、政治批判したことから、ドイツのナチス政権からさまざまな迫害を受けました。

そんな国民的大作家が、庭作りオタクだったのですね。
この本は、1月から12月まで、庭をどんなふうに季節が訪い、それに合わせて、園芸家がどんなふうに右往左往するかを、ユーモアたっぷりに描いています。

「園芸家の二月」
素人園芸家は、ふつう尻の上で終わっている。足と手は横に広げられており、頭は草を食んでいる牝馬のように、両ひざのあいだのどこかにある。

身長1メートルを越える園芸家はめったにいない。



「園芸家の四月」
四月は芽ぶきだけではなく、植付けの月でもある。熱心に、そう、猛烈な熱心さと待ち遠しさをかかえて、あちこちのプロの園芸家にすでに苗を注文していた。
そうした苗がなければ、もうそれ以上生きていられないほどの気持ちだ。

やがてある日のこと、(注文していた)百七十本もの苗や苗木が、わが家に集合し、土の中に植え込んでくれと望む。その瞬間になって、園芸家は、自分の庭をしげしげと見わたし、植える場所がどこにもないことを知り、たちまち心を沈ませる。
つまり、四月の園芸家とは、干からびかけた小さな苗を手にして、自分の庭を二十回も歩きまわり、まだ何も生えていない土が、1インチでもないかと探しまわる人間なのである。

あまりにもすることが多い園芸家の生活。
第三者的に考えると、その苦労は美しい花が咲くことで報われるはずなのですが、丹精した花の話はほとんど出てきません。
花を愛でることより、庭を作ることが大切なんですね。
ちょっとわかったような気がしました。


朝から映画を。 

来年、2月から、日本全国の映画館で開催される

午前十時の映画祭
何度見てもすごい50本
http://asa10.eiga.com/

お客の入りの少ない午前中を使うというのは、なかなかよい企画です。
上映作品50本、ほとんど見ていると思いますが、
あまりテレビでもオンエアしない映画も結構あります。
午前中時間があるときは、もう一度、映画館で見てみたいですね。

私が狙っているのは、「ある日どこかで」「薔薇の名前」「アパートの鍵貸します」「フォローミー」「バベットの晩餐会」あたりでしょうか。

メルマガ「1日10分 1年で創る自分史」36号、
25日(金)発行します。
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視点が変わると、情報が変わる。 

視点が変わることによって、文章を書くこと以外にも、思いがけない効用があります。

世の中にはいろいろな情報が溢れています。
本から、テレビから、友人との会話から、街の様子から、人間はさまざまな情報を得ています。
しかし、溢れ返る情報の、すべてをキャッチできるわけではありません。

人にはそれぞれ、自分の考え方のパターンがあります。
そのパターンの枠組みの中で理解し、役立てることができる情報だけを、知らず知らずのうちに、選び取っています。
自分のパターンにマッチしないものは、情報網の穴から抜け落ちてしまいます。どんなに有益な情報であっても、自分と関係ないと思われる情報は、スーッと通り抜けていきます。

コピー人格という別人格が、いつも自分と供にいてくれる状態を作りだせば、通り過ぎていく情報を、すばやくつかみ取ることができるでしょう。

こんなことがありませんか?
韓国映画を観ていても、前はまったくなにを言っているのかわからなかった。
でも最近、ハングルを勉強するようになって、電車の中で、ハングルでしゃべっている人たちがいることによく気がつくようになった。思わず、聞き耳を立てて、しゃべっている内容を聞き取ろうとする。ところどころ、理解できる単語が出てくる。
きっとそんな感じですよね。

人間関係も変わるかもしれません。
することなすこと暑苦しくて、苦手感があった人がいた。
いつもの自分なら、出会ってもあいさつ程度で、なにも話さなかった。
でも、コピー人格の視点を通して見てみると、「情熱的でいい人かもしれない」と思えて、話してみたら結構気が合った。

あるいは、自分の信条として、「ここだけは絶対譲れない」とこだわってきたことを、思っていたことを、コピー人格になりきって、その視点を通して考えてみた。
「譲れない」と思っていたけど、譲ってみたらどうってことなかった。

コピー人格になりきることで、発想に柔軟性が持てるようになるでしょう。
いろいろな方向にアンテナが広がっていき、いままでスルーしていた情報が、向こうからやって来るようになるのです。

文章を書く以外のときにも傍にいてほしいコピー人格。
でも、そうなると、もはや「コピー人格」という呼び方に収まらなくなってしまいますね。

視点を変えて、発想を広げる。 

コピー人格になりきることで、新たな視点を手に入れられることを書きました。

ある事柄について、「この人だったらどういうふうに考えるだろうか」と想像することで、普段の自分とは違うものの見方ができるようになるでしょう。
自分の視点に加えて、もう一つ別の視点が加わります。
それは、必要なときにアドバイスをくれる文章コンサルタントが、つねにそばにいてくれるようなかんじなのではないでしょうか。

 困ったら、コピー人格に聞いてみよう。

自分だけの視点で悩み、考えこんでいたときより、さまざまな想像力が働くことでしょう。

多様な視点でものを見られるようになることの利点は、発想の幅を広げることができるようになることです。
その発想を元に、文章を書こうとすれば、書く内容もより広い視野ものとなるでしょう。
文章の構成も、言葉の選び方も、多くの選択肢のなかから、いちばん適したものを選び出すことができるでしょう。
より多くの人が共感してくれる多様性のある文章を書けるようになるはずです。

まして、あなたが選んだ「コピー人格」は、創造的で人間的にも魅力的で、文章もとても上手に書ける人ですよね。
その視点を通して見ることを意識すれば、あなた自身の表現力にもぐっと磨きがかかることでしょう。

淡然と。泰然と。『日本の空をみつめて』倉嶋厚 <自伝・自分史・その周辺34> 

数年前までNHKのニュース番組で気象予報を担当されていた倉嶋厚さん。
ダンディな風貌で解説をされていると、大学の先生が難しい気象学をやさしく説明してくれているような雰囲気。
それまでの天気予報には、「明日の天気はなに?」という以外、なんの興味もありませんでした。
そこに、「気象予報」という見方を取入れ、目からウロコを落としてくれたのが倉嶋さんでした。
倉嶋さんの解説は、気象現象の説明に和歌や俳句を引用した知的な内容で、
四季ある国に住む喜びをひしひしと感じさせてくれるものでもありました。

この本の出版に先立つこと7年前の本は『やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから…』というタイトルでした。
自らの喉頭がん。それに続き発病した妻の末期がん。そして死。
その後訪れた喪失うつのすさまじい体験が語られていました。

人生終盤、立て続けに襲った苦しみは、すでに十分に語り尽くし、昇華することができたのでしょうか。
この本では、日本の四季をこよなく愛し、詩歌に深い造詣をもった本来の倉嶋さんに戻っていました。

前半部分では、性格形成に大きな影響を与えた父上との関係を中心に、少年期のことが語られます。
長野で、仏教関係の新聞を発行する会社を営んでいた父上は、神経質で、物事を深く考え込む性格だった倉嶋少年に、細やかな情愛を示し、生き方に大きな影響を与えます。

軍国主義に支配された旧制中学校には、陸軍から将校が配属され、厳しい軍事教練を担当していました。
身体が弱く、軍事教練を休みがちだった倉嶋少年は、配属将校からなにかと目の敵にされていました。

 卒業式の日、卒業生二百人中成績一番の生徒と三番の生徒は
 「学業優等・品行方正」の賞状をもらったが、成績二番の私はもらえなかった。

 父は「得意なときは淡然、失意のときは泰然としているものだよ」と言っただけであった。

旧姓中学を卒業し、気象に興味を持った倉嶋さんは、中央気象台付属気象技術官養成所(現・気象大学)に入学します。
その後は、日本中の気象台を転々とした気象予報士という仕事は、まさに天職だったのでしょう。
みつめ続けた日本の空は、さまざまな文学的なインスピレーションも与えてくれました。

後半部分は、日本の四季と気象学を結びつけた楽しいエッセイ。
博覧強記の倉嶋さんにしかできない気象歳時記の話。
俳句を詠まれる方には、すぐに役立つさまざまな知識が得られます。


井上ひさしさんが、肺ガン……。 

作家の井上ひさしさんが肺ガンで闘病中という今朝の新聞記事には、衝撃が走りました。
小説も舞台も、楽しませていただいている井上さんの病状が心配です。

吸い殻を灰皿に山のように積み上げて、煙幕の中で仕事している写真をよく見ていたので、
いつか、こうなることはわかっていたのかもしれません。
あのけむりのいくばくかが、私を楽しませる発想につながっていたのでしょうから、心痛みます。

入院ではなく、ご自宅での療養とのことなので、
一刻も早く、全快の報を待ちたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091216-00000517-san-soci

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短文と長文を書き分ける。 

とても幸運なケースとしては、「心の師匠」と「コピー人格」がぴったり重なる場合があるかもしれません。

あこがれの存在である「心の師匠」に、多くの人は、作家やエッセイストなど、プロの文章家を選ぶでしょう。
「こんな文章がすらすら書けたら、どんなに気持ちよく、楽しいことだろう」
そんなふうに思える人が、「心の師匠」ですから、その人になりきるのは、かなり難しいと思います。
でも、もし「コピー人格」と「心の師匠」が一致したら、それはそれで幸運なことでしょう。

その場合は断然話が早いですよね。
「心の師匠」だったら、こういうときどのように考えて、どんなふうに文章を構成し、どんな文体で表現するだろうかと考えればよいわけですから、一気通貫の文章モデルができあがります。

それは幸運なことだと思う反面、やや無理があるような気もします。
あなたが選んだ「心の師匠」は真似ることはできても、ずっとなりきり続けるのは無理な存在なのではないでしょうか。

コピーライター歴の長い私の偽らざる実感です。
キャッチフレーズは、「コピー人格」なりきり作戦で、なんとかボロを出さずに、そこそこのものが書けます。
ところが、ボディコピー(本文)になると、実力以上のものは絶対に書けません。
なりきり作戦で書こうとどんなにがんばっても、すぐに地金が出てしまいます。

やはり、「コピー人格」と「心の師匠」という二つのモデルが必要なのだと思います。

「コピー人格」は、
短文を書くときに出現させます。
考え方のモデルとして、発想を助けてくれる存在です。
コピー人格になりきって短文を書くことで、シャープで、説得力ある文章が書けることでしょう。


「心の師匠」は、
長文を書くときのお手本です。
心の師匠を真似て、構成を考えることで、破綻のない文章を書くことができます。


 短文を書くときは、「コピー人格」になりきって。

 長文を書くときは、「心の師匠」を真似て。

この二つの姿勢を持つことで、「飛び石作文法」でスムーズに、ワンランク上の文章が書けるでしょう。

「コピー人格」と「心の師匠」 

以前、「心の師匠を真似てみる」ことを提案しました。
http://jibunworks.blog16.fc2.com/blog-entry-77.html

「コピー人格」と「心の師匠」はどう違うのだろうか?

そう考えた方がいますよね。
「なんか、ネーミングばかり増えていって、実体が伴っていないぞ」というご指摘もあるかもしれません。
その疑問にお答えして、私なりの確認をしてみたいと思います。

「コピー人格」

この人の視点を持って書くことができたら、おもしろい文章表現ができるようになるかもしれないと思う人。
ある特定の個人でなくてもよいかもしれません。
自分とあまりにもかけ離れた境遇の人は設定しにくいでしょう。


「心の師匠」

文章・文体、この人の書くように書けるようになることを目指すお手本。
すぐには到達できない文章力を持った、ちょっと遠いあこがれ的存在。
現時点でそのレベルの文章を書くのは難しいので、とりあえず、文章の構成のし方を学ぶことにします。

いちばん大きな違いは、

 「コピー人格」に、なりきる。

 「心の師匠」を、真似る。

です。

「まだまだうまくなりたい」by 中山雅史 

ジュビロ磐田を解雇されて、Jリーグのトライアウトに挑戦した中山雅史選手。

42歳の中山は、52人の若いライバルに交じって、
特別厳しいマークにあって、ゴールを決めることはできなかったようです。
 
「中山を止めれば、目立てるという雰囲気は感じた。
自分としてもそれをかいくぐれば、評価を得られると思っていた」

でも、トライアウトが終わった後のインタビューで、

こんな歳になりましたけど、
まだまだ上手くなりたい。


いつまでも主役であり続けようとする意志が、
とてもカッコいいと思いました。


ためらわない。行動する。『のぶカンタービレ!』辻井いつ子 <自伝・自分史・その周辺33> 

左右に大きくからだを揺らしながら、鍵盤を叩く伸行くんの姿を見ていると、この人は、本当にピアノを弾くことが楽しくて仕方ないのだなと思います。

今年、日本人としてはじめて、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行くん。
若き天才として世界中を飛び回り活躍する彼に、最初からこの華やかなステージが用意されていたわけではありません。

全盲で生まれた息子。母いつ子さんは、絶望にくれていました。

 クリスマスの時期に街中で美しく飾られるクリスマスツリーを見ては、
 「この子は一生この美しさを見ることはできないんだ」と涙が止まらなくなり、お座りもハイハイも健常児よりも遅れがちな姿を見ては
 「この子は生まれてきて幸せなのだろうか」とすら思っていたのです。


でも、そんな伸行くんに音楽の才能があると気がついたとき、親子の果敢な挑戦がはじまりました。

 私たち親子に「ためらう」という選択肢はありません。
 目の前に現れたチャンスには必ず挑む。
 こうしたほうがいいと閃いたら即座に行動に移す。

その行動力で、一度も会ったことがないピアノ教師に電話で、頼み込みました。

 「うちの子は視覚障害を持っています。まだ一歳半にもなりませんが、ピアノを教えていただくわけにはいきませんでしょうか」


伸行くんの成長に合わせて最良の教師を選び指導を頼む。
他の楽器にも興味を持ちはじめた伸行くんにバイオリンのレッスンを受けさせる。
世界的指揮者佐渡裕氏に、私家版のデモテープを渡す。
国際経験がないまま、ポーランドで開催されるショパンコンクールに、最年少で出場する。

それら、すべての大胆な決断が、ピアニストとして自立した、現在の辻井伸行くんにつながっています。

この本は、伸行くんの成長の記録のなかに、ショパンコンクールに出場したときのドキュメントが挿入され、カットバックで進行します。
「ポーランド批評家賞」という賞を獲得した二年後に、もっとすごい賞を受賞することを私たちは知っているわけですが、それでも、いつ子さんと一緒に、審査結果にドキドキしました。

音楽家としての成功には心からの拍手を送ります。
それとともに先日、最近の伸行くんを取材したテレビ番組で、素の伸行くんも素敵だなあと思いました。

野原に咲いた一輪のタンポポのところに屈みこんで、花びらにそっと触れながら、「きれいだね」と呟きながら、満面の笑みをこぼした伸行くん。
美しさをちゃんと見ることができる青年に育っていました。



「奇妙にこわい話」大募集! 

光文社で募集中の、「奇妙にこわい話」のコンテスト。

http://www.kobunsha.com/special/atouda/

私は、苦手な分野なので、絶対無理ですが、
阿刀田高さんが審査員なのは、ちょっと魅力的。

それと、このコンテストの優秀作品は、
必ず本になる
んですよ。

こわいお話が得意な方は、ぜひ挑戦してみてください。
締切は来年1月12日です。


こちらは全然こわくありません。

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コピー人格を見つける。 

「コピー人格」として選ぶのは、できればものの考え方や行動のパターンや人間観にも納得できる人が望ましいですね。
そんな人を「コピー人格」と設定してみましょう。

「コピー人格」は、あまりにも自分とかけ離れた人はやめた方がよいと思います。
あくまでも、「あの人だったらどんなふうに考えるだろう?」「どんなことを書くだろう?」と考えることで自分の発想を広げるのが目的ですから、自分とは全然違う発想では意味がありません。

(「コピー人格」って、「キャッチフレーズを書くわけじゃないのに」というご指摘もあると思います。でも、「キャッチフレーズを書くように、短文を書こう」という提案でもあるので、もっといいネーミングを思いつくまで、暫定的に「コピー人格」のままにしておきます)

「コピー人格」を使って書こうとすると、リアルな自分だけの視点とは少し異なる視点から物事を見ることができるようになるのではないでしょうか。
視点が変わることによって、もしかすると視野も広がります。
いままで正しいと信じ込んできたことに、別の見方があることに気がつくかもしれません。
そういう意味でも、「コピー人格」を使えるようになればいいのではないかと思います。

そして、普通の文章を書くときも「ちょっと気取って書く」姿勢を持つために、あなたにぴったりの「コピー人格」を見つけてみてください。



視点が変わると文章が変わる。 

前項では、コピー人格を使って書くことの利点をいろいろ考えてみました。

コピー人格を使って書くと、なぜか、少し上手に書けているような気がする。
それは、新米コピーライターの大いなる勘違いであったと思います。
でも、時を経たいま、もう一度考えてみると、案外勘違いとも言い切れないことがあるかもしれないと思い至るようになりました。

 視点が変わる。

自分ではない「コピー人格」を設定すると、ある出来事や物事に遭遇したときに、その人だったらどんな考え方をするだろうか。どんな態度をとるだろうか。具体的に思いを巡らすことになるでしょう。
そういう思考をしてみることが、文章表現をする上では、かなり有効なのではないかと思うのです。

私の場合は、この方法をコピーライターとして、コピーを書くために開発したわけですが、普通の文章を書く場合にも使える手じゃないかと思うようになりました。

人間は誰しも自我がありますから、自分の考え方が正しいと思っているはずです。
正しいと思うからこそ、自分の意見を述べたり、行動したりすることができるわけですからね。

でも自分とは違う人格の人、文章表現のスキルは自分よりかなり上で、構成力があって、魅力的な文章を書く人。
そういう人の思考を疑似体験することができれば、自分だけの脳で考えているときより発想が広がる気がします。

こういうものの見方ができるはずだ。
自分のなかからは生まれてこない新しい発想を手に入れるには、コピー人格で書いてみることが有効です。

夫と妻の最後の日々。『妻に捧げた1778話』眉村卓 <自伝・自分史・その周辺32> 

癌で余名宣告を受けた妻のために、小説家の夫はなにかできることはないかと考えます。

 何か自分にできることはないだろうか。
 思いついたのは、毎日、短い話を書いて妻に読んでもらうことである。
 文章の力は神をも動かすというが、もちろん私は、自分の書くものにそんな力があるとは信じていない。
 ただ、癌の場合、毎日を新しい気持ちで過ごし、よく笑うようにすれば、からだの免疫力が増すーーーとも聞いた。

「千夜一夜物語」という言葉がふっと頭に浮かびました。
妻の不貞のために女性不信に陥った王は、夜伽をさせた娘を毎日一人ずつ殺していました。
王に召されたシェラザードは、毎夜、王を夢中にする話をし、凍てついた心を解かします。

眉村さんは、病に侵された妻を少しでも死という理不尽な結末から遠ざけるために、原稿用紙三枚以上の話を書き、妻に読ませました。
自力では読めないようになると、枕辺でその話を読んで聞かせる毎日を送りました。
五年間。千七百七十八日、一日も休まず、1778話の物語。

しかし、妻を見守る夫が紡ぐ物語は、妻をなぐさめるものであるにも関わらず、妻の容態の変化に少なからず左右されます。

 終末がじわじわと近づいてくるという感覚の中で、きょう一日は最善を、きょう一日は最善をーーーと務めるには、何らかの意識操作が必要なのであろう。
 私の場合それは、おしまいのときというものを、頭からぬぐい去ることであった。
 暴走列車に乗っていて、衝突の瞬間まで衝突のことを考えない、というのに似ている。

毎日一話の物語が、実は、夫をいやす目的のものだったのではないかと思えてなりません。

人間の一生で遭遇する出来事の中で、配偶者を失うことはもっともストレスが高いものだそうです。

「妻をなぐさめ、笑わせるのだ」という使命感があって、5年間の「一日一話」を続ける。
その使命があるからこそ夫は、刻々と近づいてくる妻を失う瞬間に耐えられたのかもしれません。

1778話は、妻が亡くなった当日、書かれました。
「最終回」と題されたその物語は、

 いかがでしたか?
 長い間、ありがとうございました。
 また一緒に暮らしましょう。


そう結ばれています。


2009新語・流行語大賞 結果発表! 

今年の流行語大賞が、「政権交代」
これって、流行語なのですかねえ。

政権交代があったわけですから、当然マスコミにも、口の端にも登場しますが、
別に流行していたわけじゃないだろうと、思った私は少数派?

あるTV番組で、独自の流行語ランキングを作っていて、それのベストワンに入ったのが、
漫才U字工事の「ゴメンネ、ゴメンネー」でした。

「こっちのほうが、まだ納得いくかな」
と思いました。
実際に世間の人が使っている言葉だから選ばれたのでしょうが、
考えてみると、このフレーズのニュアンスって、

「自分はあやまらなければいけないと思っていないけど、
この場のノリで、とりあえずあやまっといた方がいいかあ」


というようなかんじですよね。

気軽にあやまれるというメリットもあるものの、
コミュニケーションのありかたを軽くしてしまうという弊害もありそうな言葉ですよね。

さて、メルマガ「1日10分 1年で創る自分史」33号
12月4日(金)、発行します。

ご登録されていない方、
メルマガだけの情報もありますので、ぜひ、ご登録ください。

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『コピー年鑑』は、コピーの参考書。 

前項に書いた5の「実際に書いたものを参考にすることができる」ということについて補足をさせていただきます。
コピーライターの業界には、前年度に世に出た優れた広告作品をまとめて、毎年出版される『コピー年鑑』なるものがあります。
軽めの漬物石くらいの重さで、お値段も大二枚ほどの大型本なので、なかなか個人では購入できませんが、広告関連の会社にはだいたい年鑑が揃っています。

いうなれば法律の判例集のようなものですね。
昨年度、どんな裁判があって、どんなことが問題になり、どんな判決が出されたかがわかるようまとめてある。時代によって変わる判決の傾向もわかるようになっているのだと思います。

『コピー年鑑』では、前年度にどんな広告が出て、どんなビジュアルでどんなコピーが書かれていたか。そして、その制作に携わったスタッフがすべてわかるようになっています。

コピーライターにとってたいへんありがたいことに、掲載されている広告は、キャッチフレーズのみでなくボディコピー(本文)も読めるように印刷されています。
これが、参考書でもあり、虎の巻にもなります。

また、コピーには、これまでどこかで使われたコピーと同じものを使ってはならないという原則があります。
「すごくいい表現を思いついた!」というときには、過去に同じようなコピー表現がされていないか、『コピー年鑑』何年分かをチェックします。
『コピー年鑑』を繰り返し読んでいると、気に入ったフレーズがいつの間にか、脳に刷り込まれてしまって、あるとき自分が考えたフレーズであるかのように、ふっと出てきてしまうことがあるのです。
あまりにもでき過ぎたコピーが生まれたときは、他の人から、「このコピー、前にあったよ」と言われないように、逆に要注意です。

コピーライターのバイブルのような本が『コピー年鑑』なのです。

私は、広告コピー以外の長文を書くようになって、「なぜ、普通の文章に、コピー年鑑みたいな本がないのだろう?」「どうして誰も出版しようと思わないのだろう?」
とても、不思議に思いました。
(この項、まだまだ続く)

↓これが2009年のコピー年鑑です。



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