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プレゼンで、表現に磨きをかける。 

コピーライターとして長年仕事をしてきた経験から、「書く」ことのスキルアップのために、「プレゼン」が持つ力を痛感せずにはいられません。
プレゼン経験を積めば積むほど、間違いなく表現は上達します。

「プレゼン経験が豊富=場数を多く踏んでいる」
という単純な理由だけではありません。

制作者とクライアントという異なる立場で、一つの制作物についての意見交換をすることが、大きな気づきをもたらしてくれるのです。

クライアントからは率直で厳しい「フィードバック」があります。
フィードバックに応えようと、制作者はさらに表現を再考します。
表現をよりよくするためのやりとりが、細部に磨きをかけていきます。

小説家は、本を出す前に、書こうとするものを編集者にプレゼンします。
書こうとする内容や梗概について、説明します。
広告のプレゼンで行うような大掛かりで手間暇をかけたものではないと思いますが、やりたいことを説明する行為としては同じではないでしょうか。

そのプレゼンを経て、編集者の「ここをこうしたら」とか「考え方をもっとシャープに」とかいうフィードバックをもらいます。
それを受けて修正するというプロセスを経て、はじめて、作家も文章を書くことができるのだと思います。

広告のコピーの場合は、お金を出してくれるクライアントのOKが得られなければ、どんなに素晴らしい文章を書いても日の目を見ることはありません。
小説であれば、編集者が「出版しましょう」と言わない限り、本になることはありません。

自分で書く「自分史」には、プレゼンのプロセスがありません。
自分が出会った出来事を、自分を主役として書くのが自分史ですから、自分以外の人が読んだときにどう思うかということからまったく離れて書くこともできます。

人の目をまったく意識せず、自分一人の思いをそのまま綴ればそれなりの文章になります。
最初から最後まで自由に書きあげることは、それなりに心地よいことではありますが、独りよがりに終わってしまう危険も大いにあります。

プレゼンすることを前提として「書くこと」は、つまり「読む人」を意識して書く行為になります。

ひとまず、あなたの「強み体験エッセイ」に、素晴らしいフィードバックをくれそうなプレゼン相手を探してみましょう。
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「強み体験エッセイ」をプレゼンする。 

「主観」と「客観」を使い分けるということを繰り返し書いてきて、いまさらたいへん申し訳ないのですが、超人ならざる人間の身、ましてや多重人格でもなく、主観と客観を完璧に使い分けることは無理でしょう。

主観と客観を使い分けるスキルをなんとか身に付けたとしても、そこには自惚れや自己満足が存在します。
他人より厳しく自分の文章を評価できる人は、最初からそんなに穴ぼこだらけの文章を書いていません。
やはり、最後は「他人」という「客観」が必要です。

広告の仕事をする上で、避けて通れない重要なセレモニーがあります。
それが、「プレゼン」。
英語でpresentation。
「発表」「実演」などという意味です。
広告の世界では、自分たちがやりたい企画や表現を、クライアント(広告主)に対して説明し、採用してくれるよう説得することを言います。

広告制作者の中には、このプレゼンが好きで好きでしょうがない人と、できればなんとかやらずにすませたいと思う人がいます。
私は、「三度のご飯よりプレゼンが好き」というタイプではありませんし、プレゼンしないでどんどん仕事が来たら、ずいぶんラクチンだろうとは思います。
準備もたいへんですし、多くの場合、プレゼンは数社の競合という形を取りますから、がんばってプレゼンしたにも関わらず、採用されなかったときの疲労感たるや、言い知れないものがあります。

でも、このセレモニーが持つ意味はわかります。
広告制作はチームで行う作業ですが、制作者チームを「主観」と考えれば、プレゼンをすることではじめてクライアントという「客観」の目を通すことになるわけです。
「主観」だけで作業していては気づかなかったこと、あるいは重要だと思っていなかったことを指摘してくれるのが、客観としてのクライアントです。
その目を通すことで、はじめて表現に普遍性が出てくると言えるかもしれません。

「うれしい」のための仏教。『ボクは坊さん。』白川密成 <自伝・自分史・その周辺60> 

実体をほとんど知らないのに、「きっと、こんな感じの仕事だろう」と、思い込みで理解されてしまっている仕事があります。
「坊さん」は、その最たるものではないでしょうか。

「宗教法人は税金がタダ」とか、「日本の仏教は葬式仏教」とか、「生臭坊主」とか、尊敬されるべき職業でありながら、同時に悪いイメージもつきまとっています。

日本で唯一、密教学科がある高野山大学を卒業した若き坊さん 白川密成さん。
先代住職である祖父が亡くなり、必然的に24歳の若さで四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所 栄福寺の住職となりました。

教えを請うべき師である祖父を失い、近くに僧侶としての日常を日々見守ってくれる人はいません。
だからこそでしょうか。密成さんは、日常に起きるさまざまな出来事の解決の糸口を、仏典に求めているようです。
彼の高野山大学の卒論のテーマは「密教と現代生活」というものでした。
一人の僧侶として、また、由緒ある大寺の住職としての密成さんは、仏教の教えをいかに現代の生活に活かしていくかということに心をくだきます。

住職になるときの儀式では、先輩の僧や檀家の人々の前で、奉告文と呼ばれる文を読みあげ、住職としての「はじまりの宣言」をします。
古い仏教形式で書かれた長文なのですが、その中で、密成さんはこんな文意の奉告文を読みました。

 私はここに誓うのです。
 長い時を越え、仏に供養の花を捧げ、その仏法に学んだ智慧を積み重ねようとします。
 そして、弘法大使の残した法の宝に教えを請い、今までの僧侶の先輩方の思いに報いようとします。
 また、ここに誓うのです。
 私はわからないことを「わかった」としません。
 ただ宇宙の不思議とその心に、細心の注意を持って耳を澄ませようとします。
 そのような中でできるかぎり、深刻な顔であるよりも笑顔でありたいと思います。

 
 伝統ある行事の中で「笑顔」という自分なりの言葉を口にするのは、なんだか尻込みする思いだったけれど、それよりも自分の素直な思いを口にすることが、すこぶる大切な気がしたのだ。
 仏教は「うれしい」のためにあるものだと僕は思うから、しかめっ面でいることよりも、
できることならば笑顔であることを目的としたい。


住職となってかれこれ十年。
いつも笑顔の若い僧の生き方が、とても清々しく見えるのは、「ブッダの教えは、人を幸福にする」という、ゆるぎない信念を持っているからなのでしょう。

四国巡礼に行くときには、ぜひお訪ねしたいと思います。



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強みエッセイで、表現を増やす。 

強みエッセイを書くときに、その都度決めた課題を自分に課してください。
この習慣で、文章力アップが大いに期待できます。
課題は、自分の文章の欠点を克服することを目的としたものですが、それ以外にも表現の引き出しを増やすことを目的としたものもあります。

文章を書くときに、誰しも突き当たる壁があります。

あることを表現したいのに、それをぴったり表現できる語彙が見つからない。

作家やエッセイストは、自分の伝えたいことを正確に表現するために、独自の語彙やフレーズを持っています。
それは、書くことを仕事にしていくための絶対条件です。
自分の考えを上手く表現できる語彙やフレーズが見つからなければ、しっくりはまらない他の表現で書き換えなければなりません。

文章力のアップと、語彙を増やすことは表裏の関係にあります。
語彙が増えなければ、伝えたいことを正確に表現することができません。
文章力がアップするに連れて、より表現を豊かにする語彙が必要になってきます。
語彙が不足していると、伝えたい内容を、稚拙な文章で表現しなければならなくなります。

一朝一夕で語彙を増やすことはできません。
「このことを伝えたい。ぴったりくる表現がないだろうか?」
思ったときに辞書をひっくり返せば、なんとか語彙を見つけることができるかもしれません。
でも、そうやってやっと見つけた語彙は、なかなか文章にはまってくれないのではないでしょうか?

辞書のページからダイレクトに持ってきた語彙は、まだあなたに消化、咀嚼されていません。
突然あなたの文章の中に書き込まれて、居心地の悪さを感じているかもしれません。
あなたが生まれてはじめて使った語彙は、なにか気恥ずかしそうな印象に見えるのではないでしょうか。

いざ、書こうとするときに、辞書を引くのではなく、日々の文章修業の中で語彙を増やしていきましょう。

そのために、語彙を増やすための課題を決めてください。
たとえば、

「四字熟語をさりげなく入れ込んでみる」

「ことわざを一つ、無理なく入れてみる」

「比喩表現を考えてみる」

「擬音を自然に使ってみる」


はじめて使う語彙も、一度使ってみると馴染んできます。
あるいは、どうやってもあなたが書く文章に馴染まない表現もあるということがわかるかもしれません。
成功するにせよ、失敗するにせよ、やってみる価値はあります。
語彙が豊かになることは、あなたの書く文章が豊かになることです。

課題を決めて、強みエッセイを書く。 

「主観」である作者と、「客観」である読者の役割をしっかり使い分けられるようになると、あなたが書く文章はよりわかりやすくなり、表現にも磨きがかかってくるでしょう。

それをさらに加速させるために、強みエッセイを書くとき、そのときそのときの課題を決めることをおすすめします。

たとえば、自分が書く文章がどうにもリズムが整わなくて、たどたどしい印象があると思っているなら、
「リズムを気にして書いてみる」
という課題を自分に課してみてください。

書いてみて、リズムがよくないと思う箇所を徹底的にチェックする。
リズムを悪くしている単語か、文の順番か、原因を解析してみましょう。
語呂が悪い単語は、ほかの単語か言い回しで書き換えられないか。
文の順番をいろいろ入れ替えてみて、リズムが良くならないか試してみる。
だらだらと文章が長くなりすぎていたら、二文に分けられないか考える。

すべて、リズムを良くする目的で書いてみてください。

また、私はときおり、
「同じ単語を二度使わない」
という課題を自分に課すことがあります。

やってみると結構大変なんですが、人称の「私」は使えません。
「思った」とか「やった」なんて、しょっちゅう書いてしまう単語も二度は使えません。
なんとか別の表現で言い換えてみるか、それとも同じ単語が出てこないように、どんどん話を展開していくとかしなければなりません。

「三人称で書いてみる」
なんて課題もあります。

自分を観察する人の視線で自分のことを書いてみる。
つまり、小説家の視点ですね。
人と交わした会話も、三人称で書いてみましょう。
自分も相手も客観視することになり、冷静で抑制が効いた文章を書く訓練になります。

毎回、自分が苦手だと思うことを課題にして書いてみましょう。

難病が拓く未来。『難病東大生 できないなんて、言わないで』内藤佐和子 <自伝・自分史・その周辺59> 

弁護士になる夢を実現するために入学した東大で、一万人に一人が罹患する難病「多発性硬化症」を宣告された内藤佐和子さん。

多発性硬化症は、中枢神経系の病気です。神経を覆っている髄鞘というカバーが壊れて、神経がむき出しになってしまうことで、さまざまな症状が現れます。一度かかったら一生治らない難病だと言われています。
どの部位の髄鞘が壊れるかによって、出る症状が変わります。目が見えなくなったり、手足が動かなくなったり、排尿障害が出たり……。
明日症状が出る場合もあるが、高齢になるまで発症しない場合もあります。
どんな場合でも患者は、難病と指定された自分の身体と折り合いをつけて生きていかなければなりません。

難病になり、発症のリスクを避けるために、医師のすすめで、佐和子さんは弁護士になることを諦めます。

 「弁護士は医者と同じで、人が不幸に陥ったときに手を貸す仕事だから、ストレスもたまりやすいでしょう。そうすると悪化する可能性もある。諦めた方がいいでしょうね」

しかし、「難病」になったからこそ、知ることができたこともあります。

 難病になってから、「命」や「仕事」、そして生き方についても考えるようになった。
 もし、病気になっていなかったら、今よりずっと自分勝手で傲慢な人間だったかもしれない。好きなように生きて、わがまま放題で、結婚もせず、気づいたら一人ぼっちの人生を送っていたかもしれない。


難病を抱えていても、身体が動かなくても、車イスでもできる仕事を求めて、ビジネスプランコンテストに応募し、優勝。難病治療を目的としたビジネス設立します。

「難病」と宣告されて半年間でここまで人生が変わるものかと思うほど、エキサイティングで面白い毎日を過すことができた。
「もうだめだ」と、とことん落ち込んだときもあったけど、自分に「挑戦」しようと前を向いたら、人生がすごく充実してきたのを実感した。

パワフルに人に会い、話をし、企画を立て、実行する。

 難病でもできる。
 難病でも人生楽しめる。
 難病でも人生変えられる!


彼女にとっては、「難病」は、人生の足かせではなく、前へすすむ推進力となっています。



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強み体験エッセイを書き直す。 

「禁・感動」で書いた文章が、最終的にきちんと書きあがっているのかどうか、自分で判断するのはけっこう難しいかもしれません。

考えに考えて、やっとできあがった文章を、書きあげてすぐ手を入れることは至難の業です。
この瞬間、自分が生み出したものを、次の瞬間、他人事のように評価するなんて、そうそうできることではありません。
書いた自分は、「いい文章が書けた」と思っているわけですから、自惚れもあります。
なかなか公平な評価ができないでしょう。

だから、書いた文章をしばらく置いておくのです。

書きあがった強みエッセイを、時間をおいて読み返すとき、自分以外の第三者的な視点を持つことができます。
書き立てほやほやの文章を冷却することで、書いた直後には上手くできなかった、「冷静に読み返す」ことができるようになります。
あなたが書いた文章を、あなたが最初の読者として、厳しい目で読んでください。

「感動」という言葉を封印して書きあげた、あなたの強み体験エッセイはどうでしょう。
作者の思いが伝わってきますか?

もし、「感動」が全然伝わってこないと思ったら、その理由を読者として考えてみてください。
書いた本人はわからないことも、第三者の目を通すとわかることがあります。
読者としてのあなたが読むと、
「場所の説明がよくわからないな」とか、
「このセリフを言った人が誰か書いてないな」とか、
「結論への展開が早すぎるな」とか、
作者の自分がどれだけ読み返してもわからなかったことが、わかるようになります。
本当に不思議なのですが、「主観」から「客観」へ、ただ視点を変えるというだけで、自分の文章を公正に評価できるようになるのです。

この方法の良いところは、読者として指摘したあなたの文章の欠陥を、今度は作者として書き直せることです。
書き直したら、また時間を置いて、読者として読み返せばよいのです。
何度でも書き直せます。
何度でも書き直すうちに、どんどん文章上達に近づいていきます。

強み体験エッセイで、感動を伝える。 

「感動しました」と締めくくられた文章に、人は感動しないものだということを書きました。

あなたが感動した出来事を、一つの料理だと考えてみてください。
あなたは、それを味わい、食べ尽くし、「ああ、おいしかった」と思いました。
でも、「おいしかった」と言うだけでは、そのおいしさを人に伝えることはできません。

その料理をいつ、どこで、誰と食べたのか。
その料理には、どんな食材が使われていたか。
どんな皿にどんなふうに盛りつけられていたか。
目に飛びこんでくる色はどんな色だったか。
料理人の工夫がどこに出ていたか。
どんな香りがしたか。
舌に置いたときの食感はどうだったか。
味わいはなにに似ていたか。
のどを通るときの感覚はどうだったか。

その料理によって刺激を受けた、あなたの五感を総動員して、思い出せる感覚をすべて思い出して、やっとのことで、その料理のおいしさが再現できるのかもしれません。
「おいしかった」のひと言では伝わらない料理のおいしさを、あらゆる側面から描き出すことで、あなたが食べた料理のおいしさを、食べていない人に伝えることができるようになります。

あなたが体験した出来事を、一つの料理だと考えてみてください。
その出来事を、いつどこで体験したのかから、丁寧に思い出していってください。
出来事の細部を映像的に思い出していってみましょう。
あなたの目に、どんな映像が映っていましたか。
そのとき、あなたの耳に聞こえてきたのは、誰かの話し声ですか。
あなたが感じた季節の雰囲気はどんなものでしたか。

微に入り、細に入り再現することで、はじめて、あなたがなぜ「感動した」のかを、あなた以外の人に伝えることができるようになるのです。

「強み体験エッセイ」を書くときに、「感動した」関連の言葉を一切使わずに、感動できる文章を書くことを意識してみてください。
座右に、「禁・感動」と書いて貼り出しておいてもいいでしょう。

「おいしかった」と書かずに、その料理がどのくらいおいしかったか、伝えるように、「感動した」と書かずに、あなたの感動が伝えられるようになったら、これからあなたが書く文章には深みと味わいが増していくと思います。

仏教を体感する3日間。 

私の友人の加藤悦子さんが企画運営に参加しているイベントの情報です。
(加藤さんは、サンスクリットの書道家です)

平城遷都1300年奉祝イベント ~ほとけの道のり

8月6日から8日までの3日間、国際奈良学セミナーハウスで開催されます。

このイベントは、奈良の市民ボランティアグループが主催するもので、
仏教を通した奈良時代の国際交流の息吹を、現代に体感しようという主旨のイベントです。

インド、中国ほかの国々からのお客さまを多く招いて、さまざまな講演会や体験教室などが行われます。

中でも、注目。
私も行けたら、行きたいなあ。と思ったのが、

アジア各地からの留学僧ら出演による
   国際法会
      他言語の読経会

パーリ語、ベトナム語、サンスクリット語、チベット語、モンゴル語、中国語などなど。
いろんなお経を一度に聞けるらしいです。

またとないこんな機会。
関西地区にお住まいの方、夏休みで奈良へ行ける方、ぜひ、ご参加ください。

ほとけの道のりホームページ
http://michinori.hp2.jp/


平城遷都

老いを考え続けること。『老いのかたち』黒井千次 <自伝・自分史・その周辺59> 

人間って、年老いると、こんなに「老い」のことばかり思い続けるものなのか?

私は、私に関することはとてもよく考えます。
でも、「中年女性」だったり、「オバサン」だったりする自分の属性について考えることはまず、ありません。

だから、この本、エッセイ56本すべて「老い」をテーマに貫いていることに、驚きを覚えました。
その驚きは、感動ではなくて、「ああ、やっかいだな」というため息が混じる種類の感情で、「あきれる」に近いのでしょうか。
もちろん、「老い」をテーマにした本なのだから、最初から最後まで、老いのことばかりで間違いはありません。
でも、黒井千次さんですよ。
一人の老人以前に、一人の大御所作家なのですから、もう少し別の視点があってもいいのではないか。
そう思いつつ、読みすすみました。

某出版社のパーティーに、孫と同じ幼稚園に子供を通わせる女性作家が子供連れでやって来ていました。
彼女が、子供達に紹介してくれたときのことです。

  「ほら、Mクンのオジイチャンよ」

普段は年齢を意識することのない、作家対作家の付き合いの中で、いきなり「オジイチャン」と紹介されたことにたじろぎます。

 オレは、オジイチャンだったのだ、と急に老いたような感慨に包まれた。

老いを意識することについて、黒井さんはこんなふうに分析します。

 老いは自分の内側から訪れるというより、むしろ他人によって運ばれてくる。多くの人が語ったり書いたりしているが、乗物の中で若い人から初めて座席を譲られたときの衝撃は容易に忘れがたいものがある。
 

 好意を素直に受け入れられるようになるまでには、老いの自覚といった手続きが必要であるらしい。

老いてみてはじめてわかる、こんなリアルな悩みもあります。

 いろいろ考えるうち、こんな応用問題が浮かんでくる。こちらが優先席に座っているところにもしもっと年寄りの客が乗ってきたならば、さっと席を譲ることができるだろうか、と。
 当然そうする筈だと頷く一方で、こういう年寄りは混み合う時間の電車に乗らなければよいのに、と不平を噛みしめるのではあるまいか。
 そうだとしたら、優先席に座る若者とこちらとの間にさして違いはないように思われてくる。老いてゆく自分とそれを眺める自分との間には、この種の面倒でややこしい関係がひそんでいる。


最初に、なぜこんなに「老い」を考え続けるのかわからないと書きましたが、なんとなくわかってきました。
黒井さんは、「自分の老い」を生きながら、その「老いていく自分」を通して「現代の老い」を観察者として観察しているのですね。
それは、たしかに、黒井さんにしかできないことかもしれません。



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強み体験エッセイで文章上達を目指す。 

「主観」と「客観」を上手に使い分けることができるようになれば、自分自身が自分の文章の「良き読者」になることができます。
もちろん、「最良の読者」になるのは無理でしょうから、あくまでも中くらいの「良き読者」です。

使い分けが上手くできなかったら、少なくとも一晩以上は時間を空けて、書いた文章を読み返す。
一晩で無理だったら、一週間空けて読み直してみる。
一週間で無理だったら、今度は一ヶ月空けて読み返してみる。

どのくらい空けるかは、書いたときの興奮度とか、出来事への印象の強さとかによって変わってくるでしょう。
最初は、気持ちの入り込み方が強ければ強いほど、客観的な視点を取り戻し、冷静な批判精神を持って読み返せるようになるまでに時間がかかると思います。
でも、主観と客観の二つの役割を行き来する経験を重ねていくに従い、短時間でできるようになるでしょう。

さて、ここに、再び、5つの「強み体験エッセイ」が登場します。

強み体験エッセイは、「成功する自己イメージ」を強固にし、成功する頻度を増やしていくために、使いこなすツールとして提案しました。
あなたが書く強み体験エッセイに描き出されるあなたの言動行動は、あなた独自の成功の方法論を表しています。
それを書き表すことは、成功の方法論を繰り返し確認する作業でもあります。

5つの「強み体験エッセイ」を書き、それを新しい成功体験を加えてどんどん更新していくことで、「成功する自己イメージ」が、日常的なあなた像になっていくことが究極の目標です。

その「強み体験エッセイ」を、より文章上達に特化したツールとしても利用しようという積極的な方法を、次からは考えていきましょう。

今日は「主観」。明日は「客観」。 

あるときは、自分の体験を丁寧に再現し記録する「書き手」、つまり主観。
あるときは、書かれたことを冷静に読み解き、公平に批判する「読み手」、つまり客観。

この二つの立場を上手に使い分けることができたら、文章上達への道がパッと開けるのではないかと思います。

本来なら、そばにいつも「最良の読者」がいて、書いた文章に一つ一つ感想を述べてくれる。
「ここのところが、わかりにくい」とか、「比喩が独りよがりだよ」とか、「専門用語だと伝わらない」とか、「前半と後半でテーマが変わっているよね」とか、
読んで思ったことをストレートに伝えてくれる、きびしくてやさしい「最良の読者」が、そばにいる方は、本当に幸せです。
そう。「英語がうまくなりたかったら、アメリカ人の恋人をつくれ」という、あの理由と一緒ですね。

でも、そんな理想の文章上達法は、文章スクールの先生か、心優しい大作家と巡り会えたごく少数の人にしか実現しないシチュエーションです。

だから、自分一人で「主観」と「客観」の二人分の役割を演じようというのが、私の提案です。

簡単に言ってしまいまっていますが、実は「主観」と「客観」を使い分けるのは、誰にでも、すぐできるという技ではありません。

なぜなら、書いた「主観」の私は、考え得る限り「上手に書けた」と、思っています。書くために、テンションを揚げて、少し興奮状態かもしれません。
それを冷静に読んだ「客観」の私が、すぐさま書いた私を否定して、文章を正しく評価することは、かなり難しいのです。
多重人格ならともかく、どっちも同じ人格の「自分」ですから。

その難しいことをやるためには、やはり、時間に手助けしてもらうしかありません。すぐにはできなくても、少し時間を置いて、冷却すれば、自分という「主観」に、いい具合に客観性が混じり込んできます。

とりあえず、今日書き上がった文章は、そのまま保存して、読み返すのは明日の仕事にしましょう。

怖くても、ひとり。『がんから始まる』岸本葉子 <自伝・自分史・その周辺57> 

「おひとりさま」として、自律的に生きてきた女性が、がんを告知されたとき、どう病気と向き合い、人生を建て直していくか。

がんが発見され、手術の手順の説明を医師から受けた病院のロビーで、会計を待つ間のことでした。

「怖い」
 という感情がわいた。
 それは、これまでのどの感情よりも、原初的な感情で、ほとんど物理的な力でもあって、私の胸をとらえていた。生存を脅かされるという恐怖を、このようにつきつけられたことは、かつてない。
 がんになった衝撃を、はじめて体で受けた瞬間だった。今こそが私にとっての「告知」なのだと思った。

 が、人間には恐怖の感情とは別に、「知りたい」という欲求がある。自分の置かれた状況、あり得る可能性について、認識していたいという。

がん患者となった岸本さんは、当事者(主観)であると同時に、観察者(客観)という二つの立場を行き来しながら、がんという病に向き合います。
淡々と、冷静なドキュメントが、一人で生きてきた女性は、こんな感じ方をするのだということをストレートに伝えてくれます。

たとえば、80歳の父親に、がん告知を受けた事実をなかなか伝えられないエピソードがあります。
父親は数年前に妻である岸本さんの母親を失っていて、今度は娘も失う可能性があることを口にすることを逡巡してしまうのです。
久しぶりに会った父と昼食を食べに入ったスパゲティ屋で、向き合いながら考えているのは、こんなことです。

 (まー、やっぱり今日はやめとくか。この後、父は都心の家まで、電車で帰らないといけないわけだし、私は三時から美容院の予約をしているから送れないし、途中ショックでぼーっとして、駅の階段を踏み外されたりしても困る)

あわよくば、手術が無事終わってから、「がんだったよ」と言いたいなどと考えたりするのです。
家族持ちの私は、同じ病気に襲われたとき、これだけ自律的に対処することはできそうもありません。
岸本さんの潔さに敬服します。

一人で手術を受け、一応成功。ただ、再発リスクが残ります。「恐怖」と向き合う日々が続きます。

 私はなぜ、五年生存説を超えて、生きのびたいのか。
 再発、死。その途中にたどる、過酷な治療。加速度的に衰えていく心身といった経過が怖いこともある。
 が、「生きたい」という願いは、「死にたくない」という拒否感と、等価ではない気がする。それ以上のものがある。
 私は基本的に、生きるとはすごくいいことだと思っている。
 だから、まだ生きたりない。


再発の恐怖からまったく解放されたわけではありませんが、手術から5年を超えて、生きる望みができてきました。



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料理を作るように文章を書く。 

主観と客観を「使い分ける」って、むずかしそう?

そんなことはありません。
たとえば、料理を作るときのことを思い出してみてください。

食材を刻んで、鍋に入れて、煮込んで調味して……。

それをやっているときのあなたが「主観」だとしたら、できたかなと味見するあなたは、「客観」です。

「おいしくできた。オッケー」
と、客観的に判断します。
「ダメだな、こりゃ」
と、思ったら、もう一度調味の段階からやり直します。
調味くらいではどうしようもないと思ったら、泣く泣くボツにしてしまう料理もあるでしょう。

料理を作ることは、自分の作品を自分で評価することです。
主観で作った料理を、うまいかまずいか、客観的に判断することが必要です。
妥協のない評価をしてこそ、次回のよりおいしい料理につながっていきます。

世の一流のシェフたちは、作る能力もさることながら、自分の料理を吟味する能力が卓越しているのだと思います。
作った料理を第三者的に味わい、どう修正すれば理想の味になるかを客観的に判断することができるのでしょう。

作るときは主観。
味見するときは客観。
文章を書くときも、そんなふうに、主観と客観を使い分ければいいのです。

書くあなたと、読むあなた。
二つの役割を、違う自分でできるようにしてみましょう。
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