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「自分史」の新しい概念。 

「自分史」に似たもののようで、微妙に違うのが、「自伝」です。
功なり名を遂げた人が、自分の人生における功績を、末代まで残しておくために記すものが、自伝の概念でしょう。
一方で「伝記」という、自分の人生を人が書いてくれるという表現方法もありますから、自伝には「伝えるべき価値が自分の人生にある」という作者の自負が込められているように思います。

「自分史とは?」
という文章では必ず名前が引き合いに出される、色川大吉氏
1975年に『ある昭和史・自分史の試み』という本を出版し、そこではじめて、「自分史」という言葉が使われたそうです。
色川氏の「自分史」に触発されて、自分史の試みが市民運動のように大きなうねりとなりました。

功績などなにもない。人に伝記を書いてもらうことなどありえない庶民でも、自分が生きた証を記録に残そうではないか。

無名人の心意気なんですね。
それはそれで、とても有意義だと思います。
作家でもない普通の人々が、本を記すことなど夢のようなことだった時代には、インパクトある魅力的な提案でした。

でも、その目的だけだと、「自分史」は、リタイア後の、人生半分以上片づいた人だけのものになってしまいます。
「いろいろなことがあったけれど、いまにして思えば、あれもこれもいい思い出だね」
すべて過去形表記の、妙に達観したものになってしまうかもしれません。

それは、私が提案する自分史ではありません。

もっとアクティブで、あなたが書いた「自分史」なのに、書いたあなたに影響を与えるような、そんな「自分史」にしたいのです。
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無料レポートをご用意しました。 

今週は、ブログの更新をお休みさせていただいています。

その埋め合わせと言ってはなんですが、無料レポートをご用意しました。

内容は、「1日10分 1年で創る自分史」が提案する「アクティブ自分史」の考え方を、コンパクトにギュッと圧縮したもの。

タイトルは、

 最強の自己イメージを創る文章術
   「強み体験エッセイ」=アクティブ自分史のすすめ

これからの人生を、よりアクティブに、意識的に生きて行くために、最強の自己イメージを手に入れるスキルを具体的に書いています。

また、筆者 竹内好美の近況もご確認いただけます。

ご興味ある方、ちょっと読んでみたい方、
ぜひ、こちらから、ダウンロードしてください。

無料レポート 最強の自己イメージを創る文章術
「強み体験エッセイ」=アクティブ自分史のすすめ



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無料レポートがダウンロードできます。







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必ず生きて帰る。『一歩を越える勇気』栗城史多 <自伝・自分史・その周辺67> 

ただひたすら、山を愛し、登山を愛する人には、栗城史多(くりきのぶかず)さんの、無酸素・単独登頂は、受け入れがたいものかもしれません。
登頂の様子をインターネット動画配信する。そのために、軽量化されたとはいえ、4キロの重量の機材を余分に持つことになる。
トイレットペーパーの芯すらも重いと思う登山家にとって、余分な機材を持つこと自体が、純粋な登山ではないと思われるでしょう。

毎回、死と隣り合わせの極限まで、肉体と精神を痛めつけながら、8000メートル級の山に無酸素・単独で登頂する。
彼の挑戦の意味を理解させてくれるのが、この本です。

栗城さんの最初の海外登山は、マッキンリー。
「無謀だ」「不可能だ」「できるわけない」
後押ししてくれる人はまったくいない状態での挑戦でした。

クレバスに落っこちても誰も助けてくれないばかりか、仮に死んだとしても、誰にも見つけられることのない、完全な単独登頂でした。
たった一人での単独登頂を行ったことで、栗城さんが気がついたのは、

人間は、人と人がつながるところでしか生きていけない。

ということでした。

いまは、さまざまな人たちを巻き込んで、チーム栗城を編成しています。
単独で山頂アタックをするときも、ベースキャンプに残る仲間たちから無線でのサポートを受けています。

ヒマラヤのダウラギリへの登頂のときは、仲間とこんな交信をしました。

 無線でベースキャンプと連絡を取る。
「目が見えない。目が変になっている」
「無理をしないで下りたほうがいい。とにかく下山することを頭に入れて」
「わかりました。でもギリギリのところまでがんばります」
「ギリギリまでがんばったらダメだから」


 山に入るのは、必ず自分の力で帰ってくることが条件だ。僕はまだ山で死んではいけない人間である。なぜなら大方の人が、僕の単独・無酸素のチャレンジを「無理」だと思っているからだ。
 その人が思う「無理」「不可能」を取っ払いたい。だから僕は生きて帰らないといけない。

人とつながることは、挑戦を仲間と共有することです。

 夢を語ることは、自分を変えるだけではなく、多くの人と出会い、支え合うツールにもなる。自分の夢に興味を持ち、共鳴してくれる人は必ずいるのだ。
 夢は自分一人でかなえることはできない。エベレストでのインターネット生中継も、僕一人の力で行うことはできない。そこには酸素の薄いヒマラヤで二ヶ月以上も一緒に戦ってくれる仲間が必要だ。


夢を実現するために、栗城さんは人とつながり、夢を実現することで、人と人をつないでいるのでした。



自分史の本棚
http://booklog.jp/users/jibunworks

自己一致がベクトルを決める。 

人間には生きるために後天的に身に付けた性格や、世渡りをスムーズにするための行動パターンがあります。
自分の感情を押し殺して、本来の自分とは違う自分を演じていること、あなたはありませんか。
もしそうなら、書くという自己表現に、苦痛を感じるかもしれません。

世間に見せている自分と、心で思っている自分が一致していない。
見せかけの自分と本当の自分が、矛盾をはらみながら、なんとか辻褄を合わせている。
現実での自分の役割に、しっくりこないまま生きている。

思考と感情を一致させないまま生きているのだとしたら、その状態は自然とは言えません。

そういう生き方をずっと続けていくと、本来の自分を見失ってしまうことさえあるかもしれません。
「本来の自分」をしっかり再確認するために、「とりあえず、書く」という行為を活用してみましょう。

「とりあえず、書く」という行為を続けていくうちに、書きやすいことと書きにくいことが見分けられるようになるはずです。
同じように頭で考えたはずなのに、書いてみるとあまり楽しく書けないものがある。
それとは反対に、書いているときも楽しく、書き終わったあとの気持ちがとても壮快に感じるものがある。
前者は、思考と感情が一致していない文章であり、後者は思考と感情が一致した文章というわけですね。

思考と感情が一致すると、「書こう」と思うものと「書きたい」と思うものとが一致するようになります。

自分が本当に書きたいもの、書きたいことがなにか、はっきりわかるようになると、「書くこと」は、ぐっとラクになっていくはずです。
あなたが書く文章の一つ一つが、あなたの文章の方向性を決めます。
書けば書くほど、あなたが目指すものが、太いベクトルになって描き出されていきます。

ベクトルが決まることで、あなたが表現したいことはますます明確に、鮮明になっていくはずです。
あなたが書く文章が、すべて、そのベクトルに収まっていくようになると、書くことに、もう苦痛を感じなくなるでしょう。
あなたには、書くことを通じて伝えるべきものがわかっているのですから、漠然と書いていた頃と比べると、大きな手応えを感じられるようになるでしょう。
むしろ、「書くことが楽しい」と思えるようになっていくわけで、そうなれば、しめたものです。
あなたは、「書くという自己表現」をほぼ手中に収めかかっているのだと思います。

とりあえず、書いてみる。 

自分が書きたいことはなんなのか、あなたはもう発見しましたか?

「文章でなにかを表現したい気持ちがとても強い」
「子供の頃からずっと、書くことにあこがれている」
「自分の生きてきた証を、文章で残しておきたい」

世の中には、書きたい気持ちを強く持っている人がたくさんいます。
でも、気持ちはとても強いのに、自分が文章で表現したいことがなにか、よくわかっていない。そういう人もいると思います。

とりあえず、自分の生い立ちを順追って書いてみる。
あるいは、最近よく売れている本と同じようなテーマで書いてみる。
「エッセイのようなもの」「詩のようなもの」なら書けそうかと思って書いてみる。
ちょっと丁寧に、人にも読ませられそうな日記を書いてみる。

なにを表現したいのか、まだ決まっていない人は、試行錯誤をしながら書くことになるでしょう。
自分が書いている文章が果たして、自己表現として意味があるのかどうか。
あるいは、人に伝えるべき価値があるものなのかどうか、確証が得られないまま書くことになるでしょう。
書いてみても、これこそ自分が本当に書きたかったものだという実感が得られないかもしれません。
もちろん、それでも書かないよりは、書いた方がよろしいに決まっています。

自分の脳の中を漂う思考の種を捕まえて、書いてみることを続けるうちに、自分自身について、より深く知ることができるようになります。

思考の種は、次々と脳の中に生まれては消え、生まれては消えをしています。
そのままにしておけば、時が経てば忘れてしまって、二度と復元できない思考も無数にあります。
それを、文章として書き表すことは、自分の思考をあらためて再確認する行為になります。
自分が本当に書きたいと思って書いた文章なのかどうかは、書いてみてはじめて、客観的に確認できます。

自分の思考をチェックする目的で、文章を意識的に書くことを続けることは、自己理解を深めていくことです。
書くことで、自分が本当に大切にしていること、決して失いたくないもの、ゆるぎのない価値観などを、あらためて確認できます。

不在という存在。『いまも、君を想う』川本三郎 <自伝・自分史・その周辺66> 

生前の川本夫人 恵子さんは、ファッションジャーナリストとして活躍。蘊蓄に富んだキレのよい文章が思い出されます。
恵子さんが食道がんで亡くなられたのは2008年6月。57歳の、あまりにも惜しまれる死でした。

この本の前半は、生前の恵子さんの明るくおちゃめな性格を偲ばせる言葉や行動を描くエピソードで埋め尽くされています。

衣食住への鋭い感性。ときに夫と対立する映画へのこだわり。夫婦二人で訪れた海外旅行のこと。夫の目を通して描かれる川本恵子像を読んでいると、彼女が近しい友人であったような錯覚に捕らわれます。そして、その人がいま、すでに不在であることを考えると、一人の日常を生きる夫の痛みが迫ってきます。

前半の淡々とした筆致から、晩年の出来事はあえて書かないのかと思いました。しかし、後半は恵子さんの発病から闘病、そして死に至るさまざまなエピソードが語られます。
最期は病院ではなく家で迎えたいと希望する恵子さんのために、夫は多くの仕事を犠牲にして、献身的な看病をします。

 その日、どうしても所用があって外出せざるを得なかった。ヘルパーさんに留守を頼んだ。用事が少しのびた。帰るのが予定より遅れる。
 渋谷駅で井の頭線に乗り込む寸前に、ヘルパーさんに携帯電話を入れ、その旨を告げた。席に座ると同時に切ったのだが、よほど声が大きかったのだろう。 
 隣の中年の女性に注意された。思わずかっとなって言った。「女房が生きるか死ぬかなんだ!」。反射的にそう言った。
 気がついたら怒鳴っていた。よほど神経が参っていたのだろう。
 私の見幕に驚いたのか、その女性は黙ってしまった。私もしばらく動悸がやまなかった。


普段、人前で声を荒げることなど、まったくなかったであろう三郎さんの、そのときの気持ちが察せられます。
最後は病院で息を引き取った恵子さんを家に連れ帰るときの心境を、三郎さんはこう表現します。

 家内を連れて家へ向かった。不思議と涙はでなかった。葬儀の準備という現実のほうにまず心をくだかなければならない。悲しんでいる余裕がなかった。 
 もしかしたら葬儀という形式は、悲しみを冷却するためにあるものなのかもしれない。生き残った者を、現実のほうへ、こちら側のほうへと引き戻す。


いちばん悲しいはずの人が、泣いている暇もなく、いちばん忙しく実務をこなさなければならない「葬儀」という儀式。故人とともに、なにもかも捨ててしまいそうになる遺族の心を、しっかりこの世に繋ぎ止めるためにあるのかと、あらためて納得しました。

恵子さんの末期を詠んだ三郎さんの歌の中に、最後まで毅然と美しい恵子さんの姿が遺されています。

 キャベツ刻む包丁床に落とし
 「もう料理は無理」と立ち尽くす妻

 ホスピスを紹介しますと言われし妻
 それでもなお歯医者に通う




自分史の本棚
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書くことは、自己一致の訓練。 

タイトルの「自己一致」ということについて、少し説明したいと思います。

昨年から頻繁にオンエアされていたコマーシャルに、「オレ、キレイ事言いました」というのがありました。
コンサートライブの最後に、金髪のミュージシャンが、
「お前ら、ほんとのこと知ってる。大切なのはお金なんかじゃない。ぜんぶ、こんなか(心の中)にあるってことを」
満員のお客たちに向かって言うのですが、口に出して言ってみると、お客のシラーッとした反応から、それが「キレイ事」だとわかる。

そういうコマーシャルでした。

人間はしゃべると、よくこれをやってしまいます。
しゃべることは、そんなに深く考えなくてもできてしまう行為なので、耳障りのいい言葉を、するっと口にしてしまうのですね。

また、人間が生きて行く上で、自分に期待されている役割や、相手に合わせた発言を求められることがあります。
社会生活をスムーズに送るためには、本来の自分ではない自分を演じることが必要な場合もあります。
世間の目を意識したサービス精神で、心にもないセリフを言ってしまうこともあります。

それが、「自己一致」していない状態です。

文章を書く行為は、しゃべる行為よりはるかにエネルギーを使います。
書くためには、思考を整理し、深く掘り下げていかなければなりません。
時間も根気も必要です。
キレイ事を言うように、するっと書くことはできません。
そういう性質上、縦横無尽にフィクションを紡げる作家であればともかく、並の書き手では自分が本当に考えていること以外、書けるものではありません。

書くことによって、自分が本当に考えていることを表現する。
本来の自分と、表現された自分が一致する。
つまり、「自己一致」の訓練が自然にできていくわけですね。

書くことで、自分を知る。 

企画書やメール、報告文などは、現代人が仕事上で書かなければならない文章、いろいろあります。
毎日書いていても、それで文章が上手く書けるようになるかというと、なかなかそうは行かないようです。

上手くならないのは、当然といえば当然です。
そういうビジネス文書には、自己表現の余地がほとんどありません。
あらかじめ決められた内容を「伝える」目的を果たすことが求められているだけです。
書きながら考えることも、「間違いなく伝わるだろうか」「書き忘れていることはないだろうか」という、文章の正確さに関わることがほとんどでしょう。
「自分の思いを相手にどう伝えればいいか」という、「自己表現」への思いを抱くことはあまりないでしょう。

私は、書くことの最初の作業は、自分の脳の中を探ることだと思っています。

書く作業で、「脳」は、こんな役割を果たします。

◆脳の中を探ることによって、いま自分が考えていることをあらためて知ることができる。
◆次に、脳の中から取りだした自分の考えを、紙の上、ブラウザの上に書きだしてみる。
◆ さらにそれをまた視覚的に捉えて、もう一度自分の脳に戻してやる。
◆ 戻された思考は、脳の中で、妥当性を再度チェックされる。

この作業を繰り返していくことで、思考の精度が高まっていくのだと思います。

脳の中にふわっと現れたアイデアの種のようなものも、そのままでは定着する土壌を見つけられず、どこかに落ちて朽ち果ててしまうかもしれません。

種を脳から取り出してみると、自分の脳の中に、こんな種が漂っていることにあらためて気づきます。
書かずにいる前は、自分の思考の傾向がなんとなくわかっていても、冷静に分析し、客観的に把握することは結構むずかしいことです。

「書くこと」は、「自分を知る」という目的のためにも、意味があるのだと思います。
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