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ブッダが残してくれたもの。『超訳 ブッダの言葉』小池龍之介 <自伝・自分史・その周辺93> 

かねがね、「仏教」は宗教ではないと思っていました。
ブッダが弟子たちに残した言葉の数々は、必ず守らなければならない開祖の教えというより、個人の自己鍛練のために、先生が残してくれた指導要項のようなものだと思っていました。

しかも、その言葉は、先生自身が自分の成長を目的として、実践の中から紡ぎだしたものです。
弟子に向けて伝えるときも、その言葉を選び取るかどうかは弟子に委ねるという、なんともゆるーい先生なのです。

超訳『ブッダの言葉』を編んだ仏教僧の小池龍之介師も、同じように考えているようで、こんなエピソードを伝えています。
ブッダを慕い、多くの弟子が集まってきたとき、一人のバラモン司祭が、バラモン教をやめるので、弟子にしてほしいと言ってきました。
彼に対して、ブッダは答えました。

「君はバラモン司祭として信者の人々に儀式をしてあげる宗教の仕事をしている。仕事を投げだして私のところに来たら無責任だろう。君は今のまま仕事を続けて、休みのときは、私に瞑想を習いに来ればいい」

ここからは、ブッダに教わるために、他の宗教を否定する必要はないのだということが読み取れることでしょう。

宗教ではなく、私たちがよりよい生をいきるための実践の言葉だと位置づければ、『ブッダの言葉』は、本当にたくさんのことを教えてくれます。
小池師の超訳が、私たちの傍らにつねに存在すべき言葉として、教典を生まれ変わらせてくれました。

「自分に与えられているものに幸せを見る」

 君の手に与えられたものがたとえどんなにわずかでも、君がそこに幸せを見つけるなら、「足るを知る」充足感で心はきれいに澄んでいく。
 そのきれいな心の波は、目に見えない高次の生きものたちを喜ばせて惹きつけるだろう。


「君は、これまで君の心が思ったことの集合体」

 君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結果のつぎはぎとして、今、ここに立っている。
 すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。


あなたの心に、染み入る言葉がきっと見つかるでしょう。



自分史の本棚
http://booklog.jp/users/jibunworks
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書くことで、思考を深める。 

課題を頭の中で考えているだけでは、なかなか整理ができません。
前にも書いたことがありますが、人の脳の中に浮かぶ考えは1日に2万個前後と言われています。
思い浮かんだものをいちいち認識し、それについてひとつひとつ確認することはまず不可能です。
玉石混交の大量の考えが、つねに浮かんでは消え、消えては浮かんでいるのです。

頭の中で思考がぐるぐる回っている状態では、インプットもアウトプットもありません。
もともと論理的な思考ができる人なら、頭の中だけでで適切な答えを得ることができるでしょう。
でも、論理的思考の訓練ができてない人には、大変むずかしいことです。

ある課題を書いてみる。

その行為は、まず手を使って文字を書く。
そして、その文字を視覚的に脳にインプットする。
今度は、脳が視覚から、その文字が持つ意味を理解する。
さらに、神経回路の中をその意味が伝わりながら、次の思考を引き出してくる。
引き出された思考を、もう一度、手を使って書いてアウトプットする。

脳へのインプット、脳からのアウトプット、その繰り返しによって、思考が深まっていきます。

「自分の長所ってなんだろう?」

脳の中で考えているだけでは、いつまでも堂々巡りになってしまう課題も、まず、書いてみましょう。
書くことでより深く、自分自身を確認することができるようになると思います。

書くことで、自己確認する。 

脳の中にただ現れるだけでは、思考のタネはそのうち消えていってしまいます。
「書く」という行動で外付けしたことで、脳が真剣にそれを膨らまそうとしはじめるのです。

前回、そう書きました。
また、以前「アクティブ自分史」の三つの目的をお伝えしました。

● 一つ目の目的は、文章を大量、かつスピーディーに書けるようになること。

● 二つ目の目的は、自分史のような文章を書くことで、自分自身を理解できるようになること。

● 三つ目の目的は、文章力を自己表現の技にすること。

「書くことで、思考を外付けする」は、二つ目の「自分自身を理解できるようになること」に深く関わっています。

自分自身のことって、他人のこと以上にわからないと思いませんか。

たとえば、こんな状況をちょっと考えてみてください。
仕事ではじめて知りあった人に、
「○○さんの長所ってどんなところですか?」
と質問されたとします。
あらかじめ、そういう事態に備えて、模範解答を用意している人にはなんの問題もないでしょうが、不意に聞かれて、なかなか即答できませんよね。

頭の中でいろいろな言葉が、ぐるぐる回転をはじめるでしょう。

「長所? 真面目なところ? そんな答え、おもしろくない? つまらない人間だと思われる? やさしいところ? 優柔不断な人間だと思われるかな? 忍耐強い? 自分の主張がなくて、ただ我慢しているだけだと思われないかな? せっかくだからいいイメージを持ってもらいたいのに、言い方を間違えると、逆に印象悪くなりそう……。えーっ、なんて言えばいいんだろう?」

というようなこと、あれこれ、一瞬で考えるかもしれません。
考えては見たものの、頭の中だけで行われている作業では、なかなか整理整頓ができなくて、いつまでも、ぐるぐる回ってしまう危険もあります。

「自分の長所って、なんだろう?」

まず、紙に書いてみる。
そこから、自己確認がはじまります。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。<自伝・自分史・その周辺 番外編> 

今回ご紹介するのは「本」ではありません。

私が書いているもう一つのブログ
「素敵な人に会いました」
で、
被災者に、「がんばれ!」と言ってはいけない。

という記事を書きました。
うつ病の人に、「がんばれ!」という言葉をかけると、さらに抑うつ感を高め、辛い思いをさせてしまう、ということがあります。

大震災の被災者である人たちも、事情は同じです。
自分の努力ではどうしようもない状況におかれたとき、「がんばれ!」が非常に負担になるってしまう、その事実を伝えようと思いました。
この記事は、私のブログ読者に反響を呼びました。いろいろなご意見をいただき、
さらに、
「がんばれ禁止令」を出してください。

「がんばれ禁止令」へのご意見、いろいろいただきました。

などの記事を書きました。

記事を書いているときの私は、「がんばれ!」と言ってはいけない相手は、家を亡くし、家族をなくし、なにか新たに行動を起すこともできないご年配の人だというイメージを持っていました。

だから、きっと、「がんばれ!」と言われたときに、自分の力ではどうしようもない無力感に襲われてしまう。
同時に、「がんばれ!」と言ってくれる人の期待に答えられない申しわけなさを感じて、ますます苦しくなる、という考え方をするのだと思っていました。

「がんばれ!」と言われて、激しい怒りを感じる人がいることに、思い至っていませんでした。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。

というブログ記事に出会いました。
震災ですべてを失ったお兄さんと電話で話した内容を記事にしていらっしゃいました。

頑張ろう、頑張ろうって言うけど、
家が流されたんだよ?

と、福島の兄に電話したら、言われました。



すげぇ言われてるんだけど、CMとかで、頑張れ頑張れとか。
ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。
いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。
仕事もあるじゃんって。
おれ、船、なくなったんだぞって。
多分、漁師はもうできないと思ってる。
もう、なーーーんもない。
どう考えたら、今、頑張れるんだよ。

「結局、他人事だろ」という怒りがあります。たしかに、TVで見ているだけの人間に知ったような顔をされるのはたまらないでしょう。

ちょっとでも頑張れる何かが、今、俺たちにあるのか?
「いや、今はこっちで頑張るから、おまえらは1年ハワイでゆっくりしてきな」
とか言われたい。
「おまえらが帰ってくるまでに片づけとくから。家も建てとくから」
とか言われたい。そしたら、俺だって頑張るよ。


じゃあ、部外者である私たちは、なにをすればいいいんだろう?

「俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、
 東京も全部流されて、それでも「頑張ろう」って言われたら、
 頑張るよ。その人の歌なら聴く。
 知らないやつに、馬鹿みたいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、
 今は正直、消えてほしくなるよ。
 募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、
 町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。
 正直、ボランティアに「ありがとう」とか言うのも苦痛。」


被災地の現場で生きていく人たちに、連帯や共感を抽象的に示しても、意味がないのだと思います。
具体的に、実質的に、「こういうふうにあなたを支援します」と示さなければいけないのですね。

この記事、一度お読みください。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。

思考のタネを膨らませる。 

「ちょっと待って」と呼び止めた思考のタネ。
それを膨らませていくためには、「書く」ことがなによりも効果的です。

なぜ、「書く」ことが効果的なのでしょうか。

思考のタネをいくら脳の中で育てようとしても、なかなか上手く育ってくれません。
脳の中には、大きく育つはずの思考のタネが入っていますが、その他にも、雑念やら、妄想やら、生理的欲求やら、その他の思考が混在しています。
脳はその中から大切なものを選び出すことが上手にできません。

試験前、勉強に集中しなければならないときほど、いつでも読めるマンガを読みだしてしまったりすることありますよね。
単語を暗記しようと集中しているときに、好きな歌のサビのところが繰り返し浮かんできてしまったりもします。

脳は優先順位を付けられないのが、その原因です。
脳の中だけで仕事をやらせると、自然にそのとき脳が楽しい方へと行ってしまいます。
そのとき脳が楽しいことは、あとあと脳の持ち主を困らせることになるのですけど、脳にとってはおかまいなしです。

そんなわけなので、膨らませてみたい思考のタネは、まず書いてみて、脳の外に取り出してやることが必要なのです。

「書いてみる」ことは、思考の強化に繋がります。

まず、「書く」ことで、手を動かします。紙にペンで書くにせよ、キーボードを打つにせよ、身体を使ったアウトプットで思考を強化します。
次に、書かれた文字を目にすることで、視覚的に思考を強化します。
その文字をもう一度脳に取り込むときに、無言でも読むという行為によって、思考を強化します。
新たに、その情報をインプットされた脳は、「このことについて考えなければいけないのだな」という指令を受け取り、それについて考えをまとめはじめます。

脳の中にただ現れるだけでは、思考のタネはそのうち消えていってしまいます。
「書く」という行動で外付けしたことで、脳が真剣にそれを膨らまそうとしはじめるのです。

思考のタネを捕まえる。 

人間の脳は、24時間働いています。
人と話していても、TVを見ていても、つねに脳は働き続けています。
集中してまとまった思考をしていることもありますが、他にもたくさんの思いが浮かんでは消えていきます。
「思考」と呼ぶのも憚られるようなものも、次から次へと浮かんでくるはずです。

「お腹が減った」
「前の席の人、へんな髪形」
「ちょっと、首筋が寒いなあ」
「あ、お得意にメールし忘れちゃった」
「コンサートのチケット取れるかなあ」
「花粉、いつ終わるのかなあ」
「給料日までやっていけない」

1日に脳に思い浮かぶ考えは、2万個と言われています。
すごいですね。もし、2万個の考えをすべて記録することができたら、膨大な厚さの本ができるでしょう。
読んでもあまりおもしろくなさそうですが……。

2万個の考えのうち、自分にとって有益な考えは、それほど多くないかもしれません。
雑念とか、妄想とかも勝手に出てきてしまいます。

でも、脳は自然に湧いてくる考えの中で、どれが有益で、どれがどうでもいいことなのか、優先順位を付けることができません。
どんどん考えてしまう、それが脳の機能だからです。

「書く」という行動は、脳の中に次々現れる考えの中から、自分にとって大切な意味のある考えを取り出す作業です。

次々現れる脳の中の思考は、大きなスクランブル交差点で、右へ左へ北へ南へ、たくさん行き交っている人々。
私のイメージはそんな感じです。

行き交う人々のほとんどは、もう一生会うことのない人たちです。
その中に、なにか心惹かれる人を一人見つけ出し、「あ、ちょっと待って」と呼び止める。
その瞬間呼び止めないと、もうその人と一生出会うことがないかもしれない。
いつかまた出会えたとしても、それはいつになるかわからない未来の出来事になってしまう。

「ちょっと待って!」と思考のタネを呼び止めるのが、「書く」ための最初のステップです。
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