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異国に生きる。『母 オモニ』姜尚中 <自伝・自分史・その周辺68> 

少年時代の日本名は、永野鉄男。大人になってから使いはじめた民族名は、姜尚中(カンサンジュン)。
戦争終結間近の頃、姜さんの母 禹順南(ウスンナム)は、先に来日し、働いていた父の元に嫁いできます。日本支配の下、戦争に駆り出された朝鮮は、貧しさに喘いでいました。
しかし、日本での暮らしがラクだったわけではありません。日本での暮らしは、日本人からの差別を受け、困窮を窮めました。

自分たち夫婦も食べていくのがやっとな暮らしのなかで、同胞の女性が困窮しているのを見ると放ってはおけずに、その人と、彼女の友人もうちに住まわせてしまいます。

 「よかですよ。一緒に連れてきなっせ。キョウコさんていうたかね。ウチはかまわんけん。どうせ、ふたりも五人も、七人もおなじたい。うちんひとも、気にせんけん。何とかなるばい」

 「何とかなるばい」それが母の口癖だった。そこには、くよくよと思い悩む神経質な母とは似ても似つかないもう一人の母の姿があった。母には、自分でもよくわからない、矛盾した二人の人格が同居しているようだった。

家族や知人を気遣い、どうしようもないことをいつまでも思い悩む母。その母と相矛盾するように、肝っ玉かあさんの母もいたのでした。
チョーセン人として異国に生きるとき、生きる糧を得るための行動ひとつひとつが闘いであるような環境で、図太さと大胆さを持ち合わせていなければ、家族を守ることはできなかったのでしょう。

 母は、学校にはほとんど無関心だった。我が子が元気で学校に通っていれば、それだけで安心だったからだ。チョーセン人には大学を出てもどこにも職はないし、なまじ大学を出れば、期待が大きいだけに失望も大きいはず、我が子をそんなかわいそうな目に遭わせるのは不憫だ。これが母の結論だった。
 母が、わたしに、「勉強しなさい」と小言をいうことなど、一度としてなかった。


幼い頃、学校へ行くことができず、読み書きができない辛さを人一倍味わった母です。息子には当然、学問を身に付けさせたいと思ったはずです。
しかし、民族が抱えるハンディキャップは、頑として存在します。息子一人がいかに努力しようとも、克服するのは困難だという諦念だったのでしょうか。過度な期待を息子に負わせないという愛情の示し方でもあったのでしょう。

この本は、一人の韓国女性が、家族を守り、日本に力強く定着していく姿と同時に、切ないまでの望郷の念を描き出します。
「そんなに帰りたかったのに、なぜ、帰らなかったの?」
という疑問に、答えらしきものも見つかります。



自分史の本棚
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