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プログラムされた肉体と「型」。『狂言サイボーグ』野村萬斎 <自伝・自分史・その周辺10> 

人間臭いイメージの伝統芸能「狂言」と、無機質、硬質な「サイボーグ」という言葉の組合せは、読む者に居心地の悪い緊張感を強いてきます。
その異物感こそ、野村萬斎氏思うツボ。してやったりの企みでもあるのでしょう。
「サイボーグ」の真意を知りたくて、ページをめくるのももどかしく、読みはじめました。

師から弟子へ、狂言を教えるとき(多くの場合、その関係は親から子ですが)、厳しく「型」を教え込みます。
手の高さはここ。足の運びはこう。声の出し方はこう。
師がやるのを繰り返し真似させることで、型を植えつけ、全身の回路をつないで、機能させることができるようになる。
「型」を伝えることは、人間の肉体にデジタル情報をプログラミングしていくことのようだ。
そうして、「型」を覚え込まされた狂言師、「狂言サイボーグ」ができあがる。

「メソッド」と呼ばれる、まず役の人物の気持ちになりきることで、リアルな演技ができるという欧米の演技法の主流の考え方とは対極にあるのが、狂言の演技法であるようです。

この本は、狂言サイボーグとなり、表現者としての人生を歩みはじめた青年が、黒沢明に出会い、英国に留学し、蜷川幸雄に鍛えられ、異文化に遭遇し、その度に基盤である「狂言」を問い直す過程が描かれています。
そして、「狂言」って、そういうものだったのか、という「狂言入門」の知識もいろいろありました。

私がいちばん驚いたのは『狂言と「目」』と題された一文です。
狂言はもともと、面をつけて行う演技であることを前提としていて、面をかけていないときは「直面(ひためん)」と言って、自分の顔を面として扱うのだそうです。

だから、狂言には「目の演技」はない。

思わず「えーっ」と叫んでしまいました。
言われてみればそうなのでしょうが、一方で野村萬斎と言えば、強烈な目力(めぢから)を持った人だと思っていたので、狂言では目で演技しないのだということに、あらためてびっくりしました。
では、あの鋭い目遣いはなにかというと……、

 大河ドラマ「花の乱」に出演したとき、共演の市川団十郎丈、萬屋錦之助さんから盗んだ。

でも、この技術も映像出演のための技術で、狂言では使えないものなのだそうです。

こんな発見もありました。
「狂言にはラブシーンがない」
『法螺侍』というシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を翻案した新作狂言があるのですが、そのなかに主人公が人妻に抱擁、接吻を迫るシーンがあり、

  そのような情況に対応する古典の「型」はなく、「濡れ場」の演出には皆が気まずい思いもしたりした。

これには、思わず笑ってしまいました。




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