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過去の自分に、いまの自分を貸す感覚。『銀の匙』中勘助 <自伝・自分史・その周辺11> 

五歳の少年が、なにかの理由で精緻で端正な大人の文章力を身につけてしまった。
そして、その少年が、自分の生活の日常を淡々と文章に綴っていく。
『銀の匙』という自伝小説は、そんなふうに書かれた印象があります。

子供の心をまったく失わずに大人になった青年がいたとして、過ぎ去った子供時代の日々をどんなにか懐かしく愛おしんだとしても、こんな文章が書けるものでしょうか。

この本を読んでいると、とても不思議な視点で少年の日々を見ることになります。
喘息で体が弱く、泣き虫の幼い少年を、慈しみ、つねに背中に背負い続けて、文字通り下にも置かず、育んだ伯母さん。
伯母さんの背中に負われて祭りを見に行った日、町内のいじめっ子に追い立てられて、「弱い子だにかねしとくれよ」と伯母さんが逃げ惑う。
その出来事を、伯母さんの背中から足を引っ張るいじめっ子を、おびえながら、見下ろしている感覚を味わいます。
明治時代の町内の風景、伯母さんとの遊び、甘い菓子の味、裏庭の木々、すべての事象が子供の背丈で描かれています。

中勘助が描く少年時代には、言い訳も、批判も、反省もありません。
いま主人公である5歳の勘助、7歳の勘助、10歳の勘助、12歳の勘助につねにぴったり寄り添って、その瞬間の思いをそのまま取り出してきています。
作家中勘助が描く対象としてではなく、少年中勘助が、大人になった中勘助の筆力を借りて書いている自伝小説なのです。

彼がその姿勢を貫いているおかげで、私は自分にもたしかにあった「あの瞬間」のことに思い至りました。

幼い頃の記憶は多くの場合、とても曖昧です。誰にとってもそうでしょう。
私も小学校3年生以前の記憶にはモヤがかかっていて、いくら考えてもうまく取り出せません。

脳の働きが未成熟であり、記憶容量も十分でないため、まず優先的に、生きる機能のために「脳」が使われるためでしょう。容量不足で「記憶」は後回しにされてしまうのでしょう。

この小説で、中勘助は、それまで基本生存機能のためにしか使われていなかった「脳」が、基本生存機能以外のことに使われはじめる瞬間、その瞬間を実にクリアに見せてくれています。

小学校に上がったものの、体が弱く、少し激しく動くと熱を出してしまう少年は、「学校に行きたくない」と言えば、家族も無理に行かそうとしない。
そういう境遇であったために、授業にまったくついていけません。
また熱を出されても困ると思っている周囲の人々は誰も彼に「勉強しろ」とは言いません。

しかし、お隣に越してきた美少女けいちゃんと友達になり、楽しく遊ぶ毎日だったのに、一緒に小学校にあがり、同級生という関係になると、
「びりっこけなんぞと遊ばない」
と、突っぱねられてしまう。

そこで、はじめて少年は、自分は勉強などしなくていい特権階級なのではなく、大人たちに、この子に勉強させても無駄だと思われている劣等生だったということに気づくのでした。

それに気づいた瞬間、生まれてからずっと脳の周囲にかかっていたモヤがスカッと晴れたのだと思います。
このあと、脳がフル操業で働くようになり、姉達に勉強を教えてもらい、次の学期には、ビリから一躍、二番になっていたのでした。

『銀の匙』の、過去の自分を描くのではなく、子供の自分に現在の自分の体を貸して書かせているような感覚。
もしかしたら、これが自伝・自分史の理想なのかもしれません。



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